手掘り隧道ラスボスに挑む 武陵洞その3 完結編 [廃墟・廃校・古道・隧道]
日を改め・武陵洞へ向かった。80代の男性の地図はシンプルながら解り易かった。
それらしきところへ到着した。
この広場が大地主の土地らしい。なぜ家はないのか。大金持ちなら子孫が余裕で暮らしているのでは?
なぜ空き地になっているのか・・
手前の家にいた方に聞いてみる。親戚の方らしい。親切な方だった。
以下説明を箇条書きに記す。
1・私は親戚なので墓守をしている。
2・古い巻物もある。
3.その広い土地に屋敷があったがもう主はいない。〇〇県に引っ越している(伏せます)。
4.昭和の時代には、望遠鏡のレンズ工場だった。(こんな山の中で?)
5・この山の上には道があって向こうへ抜けられた。今は通れるかわからない(い、行きたい・・・)。
6・トンネルの手前は陥没していて入れないかもしれない。私は子供のころから、気味が悪いトンネルで、何かの気配を感じ(霊?)入りたくないと思っていた。
霊はヤバい・・でも私はやる。ここまで来てビビって引き返すわけにはいかない。
お礼を言って許可を取り、入り口へ向かった。
おそらく大地主は、農地解放で農地はほぼ無くなったので、工場を経営してみたりしたが、
子孫の代になり、千葉に見切りをつけ、引っ越したのではないだろうか・・。
DFが入れるのはここまでだ。歩こう。
しばらく歩くが、陥没はしていないようだ・・。
すると「ん?」
これは・
小さな穴発見!
その右横には・・
あったぞ!!!!!
ついに発見したのだ!
これだ!明治の方々の立っていた場所!!ついにたどり着いた。
本にさえ載っていなかった現在の入り口。
比べても間違いない!
やっとラスボスを攻略した!時空を超えて、また明治の方々とつながれた!!
前回入った三ヶ谷入り口が見える。掘るのは、さぞ危険且つ大変だったことだろう。
この隧道はかなり長い。50メートルくらいあるのではないだろうか。今まで見てきた隧道には、地盤が固くて掘りにくい時、コストを下げたい時、湾曲させたりする隧道もあったが、ここは一直線に山をくりぬいている。
予想だが、T家の財力のなせる業だったのだと思う。
中に入り振り返ってみる。
ああ・ついに来た。忘れ去られた隧道に・今は誰も通らない。地元の方も忘れ去ろうとしている・・。
その昔・小学生の通学路だったとは思えない。
隧道とは、なんとロマンのある所だろうか・・。頬をかすめて明治の風が吹き抜ける。掘り進むのに悪戦苦闘した、ノミや鶴嘴の後が刻まれたままだ。
ありがとう、皆さん。明治~現代の方々のお陰で、こうしてここに立つことが出来た。
命は確かにつながっている。輪廻転生を実感する。日本に生まれて良かった。
本当に幸せ感があふれて止まらないのだ。
一ミリでもいいから人の役に立つ生き方を続けて行こう。心から感じた冒険だった。
茂原の隧道巡りもこれで終わりだ。大変なこともあったが楽しかった。
出会ったすべての方々に感謝を捧げたい。「ありがとうございました。」
終わってしまうのが本当に寂しい。
これからも無理のない冒険をしたい。時空を超えた旅をしたい。
お爺ちゃんありがとう。震える手で一生懸命描いてくれたこの地図が無かったら、たどりつけなかったよ・。
おわり
※後日お団子をもってお礼に行きました。喜んでました。
私の欲しい物その3
古めのバイクはコレ必要かも。
https://amzn.to/3MESQiM
それらしきところへ到着した。
この広場が大地主の土地らしい。なぜ家はないのか。大金持ちなら子孫が余裕で暮らしているのでは?
なぜ空き地になっているのか・・
手前の家にいた方に聞いてみる。親戚の方らしい。親切な方だった。
以下説明を箇条書きに記す。
1・私は親戚なので墓守をしている。
2・古い巻物もある。
3.その広い土地に屋敷があったがもう主はいない。〇〇県に引っ越している(伏せます)。
4.昭和の時代には、望遠鏡のレンズ工場だった。(こんな山の中で?)
5・この山の上には道があって向こうへ抜けられた。今は通れるかわからない(い、行きたい・・・)。
6・トンネルの手前は陥没していて入れないかもしれない。私は子供のころから、気味が悪いトンネルで、何かの気配を感じ(霊?)入りたくないと思っていた。
霊はヤバい・・でも私はやる。ここまで来てビビって引き返すわけにはいかない。
お礼を言って許可を取り、入り口へ向かった。
おそらく大地主は、農地解放で農地はほぼ無くなったので、工場を経営してみたりしたが、
子孫の代になり、千葉に見切りをつけ、引っ越したのではないだろうか・・。
DFが入れるのはここまでだ。歩こう。
しばらく歩くが、陥没はしていないようだ・・。
すると「ん?」
これは・
小さな穴発見!
その右横には・・
あったぞ!!!!!
ついに発見したのだ!
これだ!明治の方々の立っていた場所!!ついにたどり着いた。
本にさえ載っていなかった現在の入り口。
比べても間違いない!
やっとラスボスを攻略した!時空を超えて、また明治の方々とつながれた!!
前回入った三ヶ谷入り口が見える。掘るのは、さぞ危険且つ大変だったことだろう。
この隧道はかなり長い。50メートルくらいあるのではないだろうか。今まで見てきた隧道には、地盤が固くて掘りにくい時、コストを下げたい時、湾曲させたりする隧道もあったが、ここは一直線に山をくりぬいている。
予想だが、T家の財力のなせる業だったのだと思う。
中に入り振り返ってみる。
ああ・ついに来た。忘れ去られた隧道に・今は誰も通らない。地元の方も忘れ去ろうとしている・・。
その昔・小学生の通学路だったとは思えない。
隧道とは、なんとロマンのある所だろうか・・。頬をかすめて明治の風が吹き抜ける。掘り進むのに悪戦苦闘した、ノミや鶴嘴の後が刻まれたままだ。
ありがとう、皆さん。明治~現代の方々のお陰で、こうしてここに立つことが出来た。
命は確かにつながっている。輪廻転生を実感する。日本に生まれて良かった。
本当に幸せ感があふれて止まらないのだ。
一ミリでもいいから人の役に立つ生き方を続けて行こう。心から感じた冒険だった。
茂原の隧道巡りもこれで終わりだ。大変なこともあったが楽しかった。
出会ったすべての方々に感謝を捧げたい。「ありがとうございました。」
終わってしまうのが本当に寂しい。
これからも無理のない冒険をしたい。時空を超えた旅をしたい。
お爺ちゃんありがとう。震える手で一生懸命描いてくれたこの地図が無かったら、たどりつけなかったよ・。
おわり
※後日お団子をもってお礼に行きました。喜んでました。
私の欲しい物その3
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手掘り隧道ラスボスに挑む 武陵洞その2 [廃墟・廃校・古道・隧道]
明治の写真の方々と同じ場所に立ちたい!
夜になる前に山の向こう側に回らねば!!
しかし・・山は思った以上に大きく・・・・・もっとも、山が大きすぎるからこそ、迂回せずに年貢を運ぶ目的で隧道が作られたのだから当たり前だ。
山向こうの裾野をぐるりと回り、隧道入り口を探したのだが、すそ野は波打つようにくねくねしており、小道や農家が数多く見られ、しらみつぶしに入るしかない。写真からするともう少し開けた感じがあるので、人がやっと通れるような小道ではないはずだ。大八車が通れるくらいの道のはず・・。
散歩する方々に尋ねると「トンネル?数年前引っ越してきたからわからないんですよ」または「ごめんなさいわかりません」の連続。地元民でもわからないのか・・・あんなメジャーな感じの隧道が・・。自分が地元民なら、看板建てたいくらいの名所じゃないか。もったいなくないのか?と思うが、地元の方々は昔のことなんか気にしない方が多い。言い伝えもしないのでは・それより、「今度スーパーができるんだって!」みたいなことに興味があるのだと思う。隧道巡りしていると肌で感じる。
しかし最後に、散歩する年配の女性に尋ねたところ「その地名はあっちの方かも」との言葉を頂きお礼を言ってDFを飛ばした!
結果は・・・・
無かった、どうしてもわからない。農家一軒づつ聞くしかないのか・・・
暗くなったので帰宅の途についた・・DFもシュンとしている(ように感じる)。ところが先ほどの女性とまた遭遇。
「詳しい人がいるから連絡してあげる、良かったら家によって下さい。電話するから。あの人こういう事詳しいし、喋りたがってるから」おお~!!
助かった。
80代の優しそうなお爺ちゃんがコンパクトカーに乗って現れた
リアルR・P・G。
とても丁寧に説明してくれた。
以下男性の説明を箇条書きに記す
1・あのトンネルは大地主のT家が掘らせた。
2・T家は大地主で貴族院の議員もしていた。
3・農地解放によって多くの農場を没収された。
4・あのトンネルには今でも行けるが、地滑りで入り口が低くなっている為入るのは危険かもしれない。
5・行き方は地図を書いてあげるから大丈夫。今も子孫が住んでいるはず。
6・隧道巡りのあなたの趣味は素晴らしい!
私はお礼を何度も言って帰宅の途についた・。
日を改めてチャレンジする事を誓った。侍のような姿の、あの方々と同じ場所に立ちたい。その一心だった。このRPG、ゲームクリアなるか!!果たして写真の入り口に立てるのか!!・
一抹の不安がよぎった。その予感は・・・
つづく
今私が欲しい物その2
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いつか廃線巡りしたい
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キャベツの千切りは自分で作ると激安↓
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庭で見られる軒下時計を付けたい。
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夜になる前に山の向こう側に回らねば!!
しかし・・山は思った以上に大きく・・・・・もっとも、山が大きすぎるからこそ、迂回せずに年貢を運ぶ目的で隧道が作られたのだから当たり前だ。
山向こうの裾野をぐるりと回り、隧道入り口を探したのだが、すそ野は波打つようにくねくねしており、小道や農家が数多く見られ、しらみつぶしに入るしかない。写真からするともう少し開けた感じがあるので、人がやっと通れるような小道ではないはずだ。大八車が通れるくらいの道のはず・・。
散歩する方々に尋ねると「トンネル?数年前引っ越してきたからわからないんですよ」または「ごめんなさいわかりません」の連続。地元民でもわからないのか・・・あんなメジャーな感じの隧道が・・。自分が地元民なら、看板建てたいくらいの名所じゃないか。もったいなくないのか?と思うが、地元の方々は昔のことなんか気にしない方が多い。言い伝えもしないのでは・それより、「今度スーパーができるんだって!」みたいなことに興味があるのだと思う。隧道巡りしていると肌で感じる。
しかし最後に、散歩する年配の女性に尋ねたところ「その地名はあっちの方かも」との言葉を頂きお礼を言ってDFを飛ばした!
結果は・・・・
無かった、どうしてもわからない。農家一軒づつ聞くしかないのか・・・
暗くなったので帰宅の途についた・・DFもシュンとしている(ように感じる)。ところが先ほどの女性とまた遭遇。
「詳しい人がいるから連絡してあげる、良かったら家によって下さい。電話するから。あの人こういう事詳しいし、喋りたがってるから」おお~!!
助かった。
80代の優しそうなお爺ちゃんがコンパクトカーに乗って現れた
リアルR・P・G。
とても丁寧に説明してくれた。
以下男性の説明を箇条書きに記す
1・あのトンネルは大地主のT家が掘らせた。
2・T家は大地主で貴族院の議員もしていた。
3・農地解放によって多くの農場を没収された。
4・あのトンネルには今でも行けるが、地滑りで入り口が低くなっている為入るのは危険かもしれない。
5・行き方は地図を書いてあげるから大丈夫。今も子孫が住んでいるはず。
6・隧道巡りのあなたの趣味は素晴らしい!
私はお礼を何度も言って帰宅の途についた・。
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手掘り隧道ラスボスに挑む 武陵洞その1 [廃墟・廃校・古道・隧道]
本に掲載された茂原の手掘り隧道も、ほぼクリアしてきた。
しかしラスボスが残っていた。
これだ!「武陵洞」だ!!この凄みのある写真!!!!ここに行かずして何の隧道巡りか!!!!!
なぜ現在の写真がないのか?!!!
そして、なぜこの隧道だけ現地の地名ではない名前がついているのか?
広辞苑の武陵桃源の項に、昔の中国 晋の太元年に、湖南武陵の人が桃林の奥に入ると、洞穴の中に秦の乱を避けた人が住んでいて、少しも世の変遷を知らなかったという楽天地、転じて世間とかけ離れた別天地・理想郷・桃源・仙郷・とある。おそらく隧道の施工主がつけた名前であろう。何とロマンのある名前か・・
明治43年に開通した隧道。大地主が山のこちらがわ(立木側)に住んでいる為、三ヶ谷の小作人たちが年貢を納めるために通るのだ。山を迂回せず、大地主の家に直通で抜ける。写真に写るこの方たちが中心となって開通させたのだろう。刀を持たせたら、侍だ。
現在は危険な為、片側は塞いであると記してある。だからこの本にも明治の写真しかない・・・しかし・・何故か行ける気がしてならない・・。
まずは三ヶ谷方面からアタック。たのむぜDF!
地図とスマホを駆使し、入り口付近に到着。そこの農家の方がまあ親切!!
優しく丁寧に教えてくれた。
この先にあるそうだ。昔は行ったことがあるが、今はどうなっているかわからないという・・・。
燃えたね! やる気出た!!
写真にはないが、『茂原市』と小さな標識が建っており、一応市道らしい。
しばらく行くと全く道は無くなった。
しかもここ、右側が1.5メートルくらい崖になっている。ええ、落ちましたとも(笑)。草や木の枝があったから何ともなかったが・・。
とにかく9月の暑い日だったので、ヘビが心配だったが、いないと仮定して進んだ。
隧道がないので一旦引き返した。
ご迷惑とは知りながら、再度農家の方に本当にこちらでよいのか尋ねる。
農家の方は「ありますよ。行けないかもしれないけど・・・」・との事で再突入!
夕方になってしまい、薄暗くなり心細さMAX!。今までで一番怖かった。行けども行けども入り口は見当たらず・・・「真っすぐと言ったが微妙にどちらかに曲がっていくのでは…。」などと考える。
隧道はスムーズに見つからないことが多いのだ。大体廃道だから、新しめのルートや獣道からちょっとずれたところにありがち。
体当たりの藪漕ぎで暫く行くと・・・・・・・・・・・・・・・・・・あっ! あれは!!!!
発見したぞ!!
こ、怖っ!!!
写真だと明るいが、薄暗い山の中に「ポチャン・ポチャン」とホラー映画のように大きく響く水滴の音。
染み出てくる水が、トンネルをぬかるみに変える。舞うコウモリ。3分の1くらい歩いて引き返した。
「向こう側から攻めよう」と思った。怖かったから(笑)。
滴る湧水のせいで、中央部は水たまりでドロドロ・長靴必須。
あと、明治写真の入り口はこちらではない。写真の入り口が見たい!と思ったから。そうなのだ。写真を見てお気づきの通り、入り口は塞がれていない。向こうに入り口が見える。明治の方達と同じ所に立てそうだ。
もう日が暮れる。DFを飛ばせば間に合うはずだ!行こう!
この時の高揚感はいまだ胸にある。普通に暮らしていたら、絶対に味わえない感覚なのだ。自分はこういう冒険がすきなのだ。
ぐるっと山を回れば楽勝だ!‥と思ったのだが・・・・思わぬ苦難が待ち構えていた・・・
つづく
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しかしラスボスが残っていた。
これだ!「武陵洞」だ!!この凄みのある写真!!!!ここに行かずして何の隧道巡りか!!!!!
なぜ現在の写真がないのか?!!!
そして、なぜこの隧道だけ現地の地名ではない名前がついているのか?
広辞苑の武陵桃源の項に、昔の中国 晋の太元年に、湖南武陵の人が桃林の奥に入ると、洞穴の中に秦の乱を避けた人が住んでいて、少しも世の変遷を知らなかったという楽天地、転じて世間とかけ離れた別天地・理想郷・桃源・仙郷・とある。おそらく隧道の施工主がつけた名前であろう。何とロマンのある名前か・・
明治43年に開通した隧道。大地主が山のこちらがわ(立木側)に住んでいる為、三ヶ谷の小作人たちが年貢を納めるために通るのだ。山を迂回せず、大地主の家に直通で抜ける。写真に写るこの方たちが中心となって開通させたのだろう。刀を持たせたら、侍だ。
現在は危険な為、片側は塞いであると記してある。だからこの本にも明治の写真しかない・・・しかし・・何故か行ける気がしてならない・・。
まずは三ヶ谷方面からアタック。たのむぜDF!
地図とスマホを駆使し、入り口付近に到着。そこの農家の方がまあ親切!!
優しく丁寧に教えてくれた。
この先にあるそうだ。昔は行ったことがあるが、今はどうなっているかわからないという・・・。
燃えたね! やる気出た!!
写真にはないが、『茂原市』と小さな標識が建っており、一応市道らしい。
しばらく行くと全く道は無くなった。
しかもここ、右側が1.5メートルくらい崖になっている。ええ、落ちましたとも(笑)。草や木の枝があったから何ともなかったが・・。
とにかく9月の暑い日だったので、ヘビが心配だったが、いないと仮定して進んだ。
隧道がないので一旦引き返した。
ご迷惑とは知りながら、再度農家の方に本当にこちらでよいのか尋ねる。
農家の方は「ありますよ。行けないかもしれないけど・・・」・との事で再突入!
夕方になってしまい、薄暗くなり心細さMAX!。今までで一番怖かった。行けども行けども入り口は見当たらず・・・「真っすぐと言ったが微妙にどちらかに曲がっていくのでは…。」などと考える。
隧道はスムーズに見つからないことが多いのだ。大体廃道だから、新しめのルートや獣道からちょっとずれたところにありがち。
体当たりの藪漕ぎで暫く行くと・・・・・・・・・・・・・・・・・・あっ! あれは!!!!
発見したぞ!!
こ、怖っ!!!
写真だと明るいが、薄暗い山の中に「ポチャン・ポチャン」とホラー映画のように大きく響く水滴の音。
染み出てくる水が、トンネルをぬかるみに変える。舞うコウモリ。3分の1くらい歩いて引き返した。
「向こう側から攻めよう」と思った。怖かったから(笑)。
滴る湧水のせいで、中央部は水たまりでドロドロ・長靴必須。
あと、明治写真の入り口はこちらではない。写真の入り口が見たい!と思ったから。そうなのだ。写真を見てお気づきの通り、入り口は塞がれていない。向こうに入り口が見える。明治の方達と同じ所に立てそうだ。
もう日が暮れる。DFを飛ばせば間に合うはずだ!行こう!
この時の高揚感はいまだ胸にある。普通に暮らしていたら、絶対に味わえない感覚なのだ。自分はこういう冒険がすきなのだ。
ぐるっと山を回れば楽勝だ!‥と思ったのだが・・・・思わぬ苦難が待ち構えていた・・・
つづく
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恐怖!市原市の隧道 [廃墟・廃校・古道・隧道]
※本日のタイトルも、ライダーV3風にしてみました(^^;)。また、中江真司さんの声で読んでください。
今日も千葉県内の隧道を探して走った。県道169号を国道409号に向かって走っていると、西国吉あたりで、隧道を発見。
県道沿いにある穴など、大したことはないだろうと、確認のため入ってみた。よくある、入り口だけで行き止まり、ごみが捨てられている穴を想像した。少しチェックして帰ろうとしたが・・
入り口は残土やガラスごみで入りにくかったが、中に入ってみて驚愕した。天井は高く横は3メートルくらいある。車が通れるほど巨大なのだ。粘土質の土が湿っている。少し潜るところもあるが普通に歩ける。空気はしっとりとして、澄んでいる。
暗闇の中を20メートルほど進んだ。おかしい、たいてい向こうの明かりが見えるのだが、ここは全く見えない。しかし巨大な隧道は、確かにどこまでも続いている。ライトで照らすと、すこし左に曲がっている。いつも能天気に隧道を楽しんでいたが、今回は違う。今までの隧道と雰囲気が違う。
恐怖が全身を貫く。今までにこんな怖い隧道はなかった。コウモリの大群も舞っている。何が潜んでいてもおかしくない。イノシシや、野獣が休憩しているかもしれない。しかもこの山は大きいので、隧道の長さも百メートルはあるのではないか。
戦争遺跡の可能性もあるが、軍用地下壕や、防空壕にしては、穴が大きすぎる。
となると、この県道169と、向こうにあるであろう集落をつないでいたのだ、と考えるのが妥当だと思う。
魔界は囁く「さあ入れよ。楽しいぞ。発見があるぞ。お前の脳にドーパミン出してやるよ。ただし危険かどうかは知らん・」
しかし、これは出直さないといけないだろう。山の反対側からも出口を探し、取材もしておいた方がいいだろう。下調べした上で重装備し、棒状の武器代わりになるものを持ち、チャレンジしなければ。いやでもここは怖すぎる。林道のような県道で両脇は山、車の通りも数分に1台くらいだ。誰も助けに来てくれないだろう。無謀な冒険は自分だけでなく、他人に迷惑をかける場合がある。
悔しい思いをかみしめながらバイクに戻り、出発した。
危険を感じたら無理をしない。これでいいのだ。でも悔しい。
後日、トンネル向こうの集落へ取材。70代くらいの男性と、80代くらいの女性に聞いたが、「トンネル?わからないな~」という事だった。原住民も分からないのか・・・
またしても手掛かりはなかった。今度現地の役所に質問してみるか・・また、キッチリ住所調べないと「どこでしょうか~ちょっとわかりませんね~」なんつって話が進まない可能性がある。ただの山だもん・・
でもおもろい道見つけて走ってきた。集落の道は楽しい。転んでもただでは起きないのだ。
しかし、検索を続けること数週間、やっとわかった。これは軍事車両用地下壕で、戦車など、軍用車を大量に隠しておく場所。U字型に掘られていて、同じ道路に戻ってくる。地元には、当時、戦車が隠してあるのを見た人がいるらしい。うおおお!当時の写真が見たい!!!無いか・・軍事機密だもんな・・。 そんなすごい場所が、普通に朽ち果てようとしている。あああ、もっと調査したい。知らずに終わりたくない・・・。機会があったら、近辺のお爺さんつかまえて(笑)話を聞こう! いやしかし、戦争体験者はすでに80~100歳代だな、難しいか・・でも諦めんぞ~。
ではまた。
今日も千葉県内の隧道を探して走った。県道169号を国道409号に向かって走っていると、西国吉あたりで、隧道を発見。
県道沿いにある穴など、大したことはないだろうと、確認のため入ってみた。よくある、入り口だけで行き止まり、ごみが捨てられている穴を想像した。少しチェックして帰ろうとしたが・・
入り口は残土やガラスごみで入りにくかったが、中に入ってみて驚愕した。天井は高く横は3メートルくらいある。車が通れるほど巨大なのだ。粘土質の土が湿っている。少し潜るところもあるが普通に歩ける。空気はしっとりとして、澄んでいる。
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となると、この県道169と、向こうにあるであろう集落をつないでいたのだ、と考えるのが妥当だと思う。
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ではまた。
隧道銀座!茂原市・その2 [廃墟・廃校・古道・隧道]
今日も、茂原市へ隧道探索だ・たのむぜDF125E!!
小冊子にある、20数個の隧道を、いつの日か完全制覇するのだ。結構楽勝かな?と思っていたが、そうでもないのだ。
まずは
中学校横の野本トンネル。現在は住宅街が開け、道路も良くなったのであまり使われていないようだ。
もちろん中学生も通らないだろう。隧道趣味の中学生がいたら渋くて良いのだが。
DFを置いて、いざ出発。
抜けると向こうの集落へ向かう道がある。
が、左を振り返ると、・・・
木生坊トンネルがある。抜けてみよう・・
抜けて振り返る・・
抜けた先は広々して良い感じだ・・畑だったのだろう。日当たりも良い。今は空き地だ。
とりあえず戻る。
まじまじと見る。
上は・・
隧道はなぜこんなに味があるのだろう。手作りで一つ一つ顔が違うのも良い。
冊子によるとぐるりと回れるようなので、集落へ出よう。
ヤマトタケル伝説の、船着神社まで数百メートル歩く。お参りを済ませ、左の道を登る。
気持ちの良い道・
そのまま行けば先ほどの木生坊トンネルの上に出るそうだ。楽勝じゃん。
あら?道がないよ・・
まあ行ってみよう・・何とかなるっしょ。行けるって書いてあるし・・
道全然わからん・竹が元気に生えちゃって(笑)
無限に倒れている竹を乗り越え、時々バキッと折れて、転びそうになりながら山を登る,・・・暑い・・暑い・・来なきゃよかった・・・
しまった!、あの小冊子は、今も市役所で買えるが、出版されたのは20年以上昔!!ふた昔前じゃないか!!!情報が古すぎる!!だから道が荒れているのだ。
ま・いいわ・好きでやってるんだから(突如冷静に・・)自然相手だから腹が立たないのだ。
お!この穴は・・農作業の道具を一時的に置いたり、休憩したり、草を燃やしたりするのかもしれない。隧道のある所は、こういう穴も多いのだ。
藪漕ぎは続く、ここはまだ良いほうだ。
汗だくで数十分、やっとさっきの開けたところへ抜けた。命がけオリエンテーリングだから、達成感ハンパ無い。
さあ、戻ろう、野本トンネルを抜ける。
DFが待っていてくれると嬉しいんだよね。ほんと、売らずに・自分で修理してよかったわ。
ありがとう野本隧道。
まだ時間はある。次の隧道だ。
自分にとって、こんなに生き生きと楽しめる趣味は、なかなか無い。(何といってもお金がほぼかからないのが良い。笑)※お賽銭代くらい。
次へ向かい、走っていると、右腕が鈍く痛む・ん?
あ!あれだ!山ビルだ!!バイクを止めて上着を脱ぐ、‥ジャージの右腕に、1センチくらいの茶色の芋虫のようなものが、食いついている。山ビルの下は私の血液が、1センチくらいの丸い染みを作っている。
クソッ!さっきの藪漕ぎで付いたんだ。ま。昔もっとでかいのにやられたから別にいいわ。
払い落としてホッとする。ライターもってたら焼いたんだが・運のいい奴め。
でも、ヘビやコウモリよりましだ。
つづく
小冊子にある、20数個の隧道を、いつの日か完全制覇するのだ。結構楽勝かな?と思っていたが、そうでもないのだ。
まずは
中学校横の野本トンネル。現在は住宅街が開け、道路も良くなったのであまり使われていないようだ。
もちろん中学生も通らないだろう。隧道趣味の中学生がいたら渋くて良いのだが。
DFを置いて、いざ出発。
抜けると向こうの集落へ向かう道がある。
が、左を振り返ると、・・・
木生坊トンネルがある。抜けてみよう・・
抜けて振り返る・・
抜けた先は広々して良い感じだ・・畑だったのだろう。日当たりも良い。今は空き地だ。
とりあえず戻る。
まじまじと見る。
上は・・
隧道はなぜこんなに味があるのだろう。手作りで一つ一つ顔が違うのも良い。
冊子によるとぐるりと回れるようなので、集落へ出よう。
ヤマトタケル伝説の、船着神社まで数百メートル歩く。お参りを済ませ、左の道を登る。
気持ちの良い道・
そのまま行けば先ほどの木生坊トンネルの上に出るそうだ。楽勝じゃん。
あら?道がないよ・・
まあ行ってみよう・・何とかなるっしょ。行けるって書いてあるし・・
道全然わからん・竹が元気に生えちゃって(笑)
無限に倒れている竹を乗り越え、時々バキッと折れて、転びそうになりながら山を登る,・・・暑い・・暑い・・来なきゃよかった・・・
しまった!、あの小冊子は、今も市役所で買えるが、出版されたのは20年以上昔!!ふた昔前じゃないか!!!情報が古すぎる!!だから道が荒れているのだ。
ま・いいわ・好きでやってるんだから(突如冷静に・・)自然相手だから腹が立たないのだ。
お!この穴は・・農作業の道具を一時的に置いたり、休憩したり、草を燃やしたりするのかもしれない。隧道のある所は、こういう穴も多いのだ。
藪漕ぎは続く、ここはまだ良いほうだ。
汗だくで数十分、やっとさっきの開けたところへ抜けた。命がけオリエンテーリングだから、達成感ハンパ無い。
さあ、戻ろう、野本トンネルを抜ける。
DFが待っていてくれると嬉しいんだよね。ほんと、売らずに・自分で修理してよかったわ。
ありがとう野本隧道。
まだ時間はある。次の隧道だ。
自分にとって、こんなに生き生きと楽しめる趣味は、なかなか無い。(何といってもお金がほぼかからないのが良い。笑)※お賽銭代くらい。
次へ向かい、走っていると、右腕が鈍く痛む・ん?
あ!あれだ!山ビルだ!!バイクを止めて上着を脱ぐ、‥ジャージの右腕に、1センチくらいの茶色の芋虫のようなものが、食いついている。山ビルの下は私の血液が、1センチくらいの丸い染みを作っている。
クソッ!さっきの藪漕ぎで付いたんだ。ま。昔もっとでかいのにやられたから別にいいわ。
払い落としてホッとする。ライターもってたら焼いたんだが・運のいい奴め。
でも、ヘビやコウモリよりましだ。
つづく
隧道銀座!茂原市・その1 [廃墟・廃校・古道・隧道]
以前買った茂原市の隧道小冊子「トンネルのはなし」。手掘り隧道28本が掲載されている。
これを参考に、今日もいくつか隧道を探そう・・
今回は4本回ってみた。地元の方々の生活を支えていた、有名ではない、いつ無くなってもおかしくない隧道。私はこれに惹かれる。
メジャーなところも行くが、それほど興味がない。次々に観光客が通ると、現実に引き戻されてしまうから。
今回の隧道群は、近場に密集していて回り易い。もうオリエンテーリング感覚!!頼むぜDF!!
しかし、狭い道でのUターンや、バイクを置いて歩きなんて場合があるので、本当はスーパーカブのほうが回り易い・けど廃車中だから・・・。隧道巡りの時はDFが大きく感じられる。
まずは細田トンネル(明治33年頃開通)
民家横の道を抜ける。バイクでラクラク通過。今後切り通しにする計画があるそう(ええっ!?)
中は照明もあり、やや長めだが、抜けると八幡神社がある。
※この写真中央に、右上に続く道があるのがお分かりいただけると思う?隧道の上に切り通しがあるのだが、数十メートル先に、大きな倒木があり進めない。さすがに引き返した。残念。でも雰囲気は良い。
一気にタイムスリップできる、時代を感じる切り通しだ。無名な手掘り隧道や、切り通しに入ると、現代から隔絶されて、当時の鶴嘴の跡がそのままむき出しで残り、音もなく、自然の臭いと静けさのみ。現代の物など何もない。そして小枝からのわずかな光に包まれる。私にとっては異次元にいるような感覚だ。時の狭間に立つあの感覚、皆さんにも味わって欲しいといつも思う。
次は民家の畑を通過するため、場所がわからなかった坊谷(ぼうやつ)トンネル(昭和39年完成・鶴嘴のみで作られた)。地元の方に聞いたら、
「あそこは使われてないから通れないよ。イノシシの罠にも気を付けて」と言われた。いや、行ってやる。余計に行きたくなる。
バイクは置いて歩いて向かう。
無いな~・無いな~・・ン?あれは?(隧道巡りやってると、隧道センサーが敏感になる・マジで)。
来る途中道路でヘビにあったので、恐れながら進む。
やはりここだ!
天井が低い!そして暗い!スマホのライト全然役に立たん。※写真はフラッシュ使用。
コウモリはいなそうだ。顔に飛んで来たら絶叫する自信はある。
例によって、壁面は綺麗だ。誰も通らず手入れもしないのに。コケもカビも雑草もない。小枝は沢山落ちているが・。
約60年前は、農家の方々が、牛を連れて通過したのだろう。掘るのも大変だったろう。鶴嘴でトンネル掘るって、実際やったら想像を絶する重労働なのでは?
60年のタイムスリップを楽しむ。
※でも、初回隧道突入時はヘビ・コウモリ・山ビルが怖いので、そんなにリラックスしていない(;'∀')。2回目は大丈夫だが。
出口が見えたぞ!
光の向こうには・・・
田んぼがあった。山を挟んで住居と田畑があるので、そのために作られた、農作業用隧道なのだ。近辺の、他の多くの隧道もその用途が多い。
この隧道がなかった頃、耕地に向かった牛が、山道から滑り落ちて、自力で牛舎に帰っていて、農家の人が驚いたという話があるそうだ。今は農道ができて、隧道はほとんど使われなくなったそう
(つか、使用感全然ないんですけど・・ほぼ廃道)。
通り抜けて振り返る(中央の暗闇が魔界・いや、隧道入り口)
次は戸田谷(へたやつ)トンネル(大正12年)。これは上がとがった、観音掘りだ。
当初は坂道トンネルだったのだが、農作業の暇な冬に、男手を集め、坂を削って削って、歩きやすい平らな道にした為、このような高い天井になった。
ここもバイクでラクラク抜けられる。
最後は住吉(しょうよし)トンネル(昭和24年)だが、ここは取材が18時を過ぎてしまい、この写真だけとなる。昭和63年・耕地整理のため、切通となってしまった(地元の方にとっては良い事)。
DFのH4球ライトは明るい。※写真ピンボケ勘弁です。
こうしてみると、やはり、使われていない隧道が好きだ。バイクでラクラク通過すると、感動は薄い。藪漕ぎしながら苦労して探しあて、廃隧道なのに壁面がピカピカしていて、空気が澄んでいることに、たまらなく感動する。こうしてリフレッシュできると、仕事への活力になる(過去は波乱万丈だったが、お陰様で、今は好きな仕事に恵まれている)。
機会があれば残りも取材してみたい。
ではまた。
これを参考に、今日もいくつか隧道を探そう・・
今回は4本回ってみた。地元の方々の生活を支えていた、有名ではない、いつ無くなってもおかしくない隧道。私はこれに惹かれる。
メジャーなところも行くが、それほど興味がない。次々に観光客が通ると、現実に引き戻されてしまうから。
今回の隧道群は、近場に密集していて回り易い。もうオリエンテーリング感覚!!頼むぜDF!!
しかし、狭い道でのUターンや、バイクを置いて歩きなんて場合があるので、本当はスーパーカブのほうが回り易い・けど廃車中だから・・・。隧道巡りの時はDFが大きく感じられる。
まずは細田トンネル(明治33年頃開通)
民家横の道を抜ける。バイクでラクラク通過。今後切り通しにする計画があるそう(ええっ!?)
中は照明もあり、やや長めだが、抜けると八幡神社がある。
※この写真中央に、右上に続く道があるのがお分かりいただけると思う?隧道の上に切り通しがあるのだが、数十メートル先に、大きな倒木があり進めない。さすがに引き返した。残念。でも雰囲気は良い。
一気にタイムスリップできる、時代を感じる切り通しだ。無名な手掘り隧道や、切り通しに入ると、現代から隔絶されて、当時の鶴嘴の跡がそのままむき出しで残り、音もなく、自然の臭いと静けさのみ。現代の物など何もない。そして小枝からのわずかな光に包まれる。私にとっては異次元にいるような感覚だ。時の狭間に立つあの感覚、皆さんにも味わって欲しいといつも思う。
次は民家の畑を通過するため、場所がわからなかった坊谷(ぼうやつ)トンネル(昭和39年完成・鶴嘴のみで作られた)。地元の方に聞いたら、
「あそこは使われてないから通れないよ。イノシシの罠にも気を付けて」と言われた。いや、行ってやる。余計に行きたくなる。
バイクは置いて歩いて向かう。
無いな~・無いな~・・ン?あれは?(隧道巡りやってると、隧道センサーが敏感になる・マジで)。
来る途中道路でヘビにあったので、恐れながら進む。
やはりここだ!
天井が低い!そして暗い!スマホのライト全然役に立たん。※写真はフラッシュ使用。
コウモリはいなそうだ。顔に飛んで来たら絶叫する自信はある。
例によって、壁面は綺麗だ。誰も通らず手入れもしないのに。コケもカビも雑草もない。小枝は沢山落ちているが・。
約60年前は、農家の方々が、牛を連れて通過したのだろう。掘るのも大変だったろう。鶴嘴でトンネル掘るって、実際やったら想像を絶する重労働なのでは?
60年のタイムスリップを楽しむ。
※でも、初回隧道突入時はヘビ・コウモリ・山ビルが怖いので、そんなにリラックスしていない(;'∀')。2回目は大丈夫だが。
出口が見えたぞ!
光の向こうには・・・
田んぼがあった。山を挟んで住居と田畑があるので、そのために作られた、農作業用隧道なのだ。近辺の、他の多くの隧道もその用途が多い。
この隧道がなかった頃、耕地に向かった牛が、山道から滑り落ちて、自力で牛舎に帰っていて、農家の人が驚いたという話があるそうだ。今は農道ができて、隧道はほとんど使われなくなったそう
(つか、使用感全然ないんですけど・・ほぼ廃道)。
通り抜けて振り返る(中央の暗闇が魔界・いや、隧道入り口)
次は戸田谷(へたやつ)トンネル(大正12年)。これは上がとがった、観音掘りだ。
当初は坂道トンネルだったのだが、農作業の暇な冬に、男手を集め、坂を削って削って、歩きやすい平らな道にした為、このような高い天井になった。
ここもバイクでラクラク抜けられる。
最後は住吉(しょうよし)トンネル(昭和24年)だが、ここは取材が18時を過ぎてしまい、この写真だけとなる。昭和63年・耕地整理のため、切通となってしまった(地元の方にとっては良い事)。
DFのH4球ライトは明るい。※写真ピンボケ勘弁です。
こうしてみると、やはり、使われていない隧道が好きだ。バイクでラクラク通過すると、感動は薄い。藪漕ぎしながら苦労して探しあて、廃隧道なのに壁面がピカピカしていて、空気が澄んでいることに、たまらなく感動する。こうしてリフレッシュできると、仕事への活力になる(過去は波乱万丈だったが、お陰様で、今は好きな仕事に恵まれている)。
機会があれば残りも取材してみたい。
ではまた。
私立静和女学校跡 [廃墟・廃校・古道・隧道]
明治35年、女子教育の立ち遅れを解消するため、豊栄村岩川(現・千葉県長生郡長南町岩川)の白井勇次郎先生(地元の名士と思われる)が、近所の寺・祐蔵院を仮校舎として、私立静和女学校を開校。
※コンパクトで綺麗なお寺です。草刈りもキッチリしてありました。取材しましたが、当時の資料は残っていないそうです。「ごめんなさい」なんて謝って頂いて、「いえいえとんでもないです」とこちらも恐縮。
明治36年、現地に本校舎完成。高等女学校に準じた学科3年と師範予備科・専修科1年を備える学校となった。
※前は県道の為、割と交通量多め。
※白井先生のご自宅はこの石碑の真ん前。道路(県道13号市原茂原線)の反対側。
詳細はこれを読んで欲しい。
生徒が増えたため、16年後の大正8年、茂原に校舎を移し、昭和14年には県に移管。現在は県立茂原高校となった。今も静和会という名前が残り、活動している(保護者会・卒業生会の事だと思う)。この学校も、私立が県立に変わったのだ。以前の上埴生学館跡地から数キロしか離れておらず、この近辺の、教育に対する強い姿勢が、窺われる。
今回は雑草を燃やしていた農家の方に話を伺ったが、明治の事なので分からなかった。正面の白井先生のご自宅に行けば、写真等あるかもしれないが、呼び鈴を押してまで取材は気が引けて出来なかった。
また、現地は田の中にあるため、当時の雰囲気は残っておらず、石碑だけである。
よって当時の雰囲気、三つ編みおさげの女学生が走る様子などはイメージできなかった。ちょっと残念である。でも、田を渡る風はいつも爽やかだった。
他の文化財に関しては、https://www.town.chonan.chiba.jp/shoukai/rekishi/536/を参照頂きたい。
以上・今回は文化財紀行のような感じで、終わらせて頂きます。
ではまた。
※コンパクトで綺麗なお寺です。草刈りもキッチリしてありました。取材しましたが、当時の資料は残っていないそうです。「ごめんなさい」なんて謝って頂いて、「いえいえとんでもないです」とこちらも恐縮。
明治36年、現地に本校舎完成。高等女学校に準じた学科3年と師範予備科・専修科1年を備える学校となった。
※前は県道の為、割と交通量多め。
※白井先生のご自宅はこの石碑の真ん前。道路(県道13号市原茂原線)の反対側。
詳細はこれを読んで欲しい。
生徒が増えたため、16年後の大正8年、茂原に校舎を移し、昭和14年には県に移管。現在は県立茂原高校となった。今も静和会という名前が残り、活動している(保護者会・卒業生会の事だと思う)。この学校も、私立が県立に変わったのだ。以前の上埴生学館跡地から数キロしか離れておらず、この近辺の、教育に対する強い姿勢が、窺われる。
今回は雑草を燃やしていた農家の方に話を伺ったが、明治の事なので分からなかった。正面の白井先生のご自宅に行けば、写真等あるかもしれないが、呼び鈴を押してまで取材は気が引けて出来なかった。
また、現地は田の中にあるため、当時の雰囲気は残っておらず、石碑だけである。
よって当時の雰囲気、三つ編みおさげの女学生が走る様子などはイメージできなかった。ちょっと残念である。でも、田を渡る風はいつも爽やかだった。
他の文化財に関しては、https://www.town.chonan.chiba.jp/shoukai/rekishi/536/を参照頂きたい。
以上・今回は文化財紀行のような感じで、終わらせて頂きます。
ではまた。
長南町指定文化財史跡 私立上埴生学館跡 [廃墟・廃校・古道・隧道]
茂原の隧道の帰り、近所の村の中をDFで散策中、発見した看板・。
此処が学校だったのか・・・(昔の学校はグラウンドが狭いので、跡地に気づきにくい)。
でもいい雰囲気だ。たまに軽トラが通るだけの、農村の静かな通りから見える跡地。入ってみよう。
冒険探索バイク・DFは、落ち着いて休息に入った。奥の家は公民館的なもので、学校とは無関係。
地図は公民館を設定してある↓
説明看板がある。近づいてみよう。
これ何度読んでも良く分からなかったのだが、要するに、
明治21年・・ここに尋常小学校ができた・同年末、私立上埴生学館中学校ができた。明治22年開校。
明治34(1901)年には私立長生学校と合併して茂原に移転、大正12(1923)年には県に移管されて、現在は県立長生高等学校となった。という事で、最終的には私立が公立になったんだな。
ここは12年間しか使われなかったけど、町の有志の尽力で立ち上げられた学校だし、それが大きく発展していく基礎となったことを称え、この跡地を大切に残しましょうという事らしい。
この奥の台地に、4棟も校舎が建っていたらしい。すごく狭く感じるのだが、土地って建物を建てると広く感じるからね・・・
※良く、更地にすると、「この土地によくあんな大きな家が建ってたよね」なんていう会話をすることがあるでしょう?
この案内板に「当時のレンガ積みの井戸跡が現存する」ってあるので、藪漕ぎしてみたが、木が密集して生えているので、進めないのだ。のこぎりで倒しながら進まない限り・・。見たい、明治の井戸の跡。さすがに藪漕ぎ名人を自負する私(いつから?)でも無理だ。
自転車で通りかかった女性に聞いてみたが、「あるらしいけど見られないよね・・。」とのこと。また、この近辺は教員が多い事を教わった。
でもいいのだ。明治の小中学生が駆け回ったグラウンド・校舎があった場所。
時空を超え、そこに私は立った。たくさんの観光客が来るわけもない、静かに眠る地方の学校跡。
私はどうしてもこういう所が好きなのだ。これは生まれ持った性分かも知れない。
平凡に・しかし力強く生きた名もなき人々達が集っていた場所。そこにいるだけで私は幸せなのだ。
明日を生きる活力になるのだ。
長南町には女学院跡もあるらしいので、今後そこにも行きたい。
DFありがとう。さあ帰ろう。今日は日のあるうちに帰れそうだ。
ではまた。
此処が学校だったのか・・・(昔の学校はグラウンドが狭いので、跡地に気づきにくい)。
でもいい雰囲気だ。たまに軽トラが通るだけの、農村の静かな通りから見える跡地。入ってみよう。
冒険探索バイク・DFは、落ち着いて休息に入った。奥の家は公民館的なもので、学校とは無関係。
地図は公民館を設定してある↓
説明看板がある。近づいてみよう。
これ何度読んでも良く分からなかったのだが、要するに、
明治21年・・ここに尋常小学校ができた・同年末、私立上埴生学館中学校ができた。明治22年開校。
明治34(1901)年には私立長生学校と合併して茂原に移転、大正12(1923)年には県に移管されて、現在は県立長生高等学校となった。という事で、最終的には私立が公立になったんだな。
ここは12年間しか使われなかったけど、町の有志の尽力で立ち上げられた学校だし、それが大きく発展していく基礎となったことを称え、この跡地を大切に残しましょうという事らしい。
この奥の台地に、4棟も校舎が建っていたらしい。すごく狭く感じるのだが、土地って建物を建てると広く感じるからね・・・
※良く、更地にすると、「この土地によくあんな大きな家が建ってたよね」なんていう会話をすることがあるでしょう?
この案内板に「当時のレンガ積みの井戸跡が現存する」ってあるので、藪漕ぎしてみたが、木が密集して生えているので、進めないのだ。のこぎりで倒しながら進まない限り・・。見たい、明治の井戸の跡。さすがに藪漕ぎ名人を自負する私(いつから?)でも無理だ。
自転車で通りかかった女性に聞いてみたが、「あるらしいけど見られないよね・・。」とのこと。また、この近辺は教員が多い事を教わった。
でもいいのだ。明治の小中学生が駆け回ったグラウンド・校舎があった場所。
時空を超え、そこに私は立った。たくさんの観光客が来るわけもない、静かに眠る地方の学校跡。
私はどうしてもこういう所が好きなのだ。これは生まれ持った性分かも知れない。
平凡に・しかし力強く生きた名もなき人々達が集っていた場所。そこにいるだけで私は幸せなのだ。
明日を生きる活力になるのだ。
長南町には女学院跡もあるらしいので、今後そこにも行きたい。
DFありがとう。さあ帰ろう。今日は日のあるうちに帰れそうだ。
ではまた。
怪奇!豊英湖へ続く隧道 [廃墟・廃校・古道・隧道]
今回はライダーV3風タイトルにしました。タイトルは中江真司さんの声で読んでください(笑)。
集落から豊英湖へ続く隧道があるという。9月終わりのある日、探しに行ってみた。
気温は27℃もあった。
https://www.google.co.jp/maps/@35.1892221,140.0176727,57m/data=!3m1!1e3
見つけた!ん?やけに小さい。
引きで撮るとこんな感じ・・良いところだが・・
とにかく入り口の穴が小さい・・これでいいのだろうか
これ、人入れないよ!
クモの巣がはっていた・・
ああああ はいりたくないいいい~でも入っちゃう・・
ん?階段になってるぞ・
軍手にライト装備で突入!
中は結構きれいじゃん!
地層や、鶴嘴で掘削の跡が見られ、味がある。
しかし天井にコウモリがいたのだ。ジーッと天井にぶら下がっている。刺激しないよう・そ~っと通り抜けた。
振り返ると、透き通る茶色の羽をはばたかせ、パンパンの腹を見せていた。数匹は飛び回った。
ウウウ・気持ちわるい。鳥と違って、逃げていかないところが不気味なのだ。
道は湖へと向かう
湖(ダム)だ。
この向こうのダムの中に、廃橋つり橋の主塔があったのだが撮り損ねた(不覚!)。とにかく戻ろう。
コウモリに会いたくないので、隧道の上を目指して山を登る。
今出てきた隧道を上から望む。あんなに、枯れ葉が敷き詰められていたのか・
おお、ほっとする、我が愛機の姿。
佇む私を見て、草刈り中の人が手を休めて、近寄ってきて教えてくれた。あの白い軽トラのオーナー。
1・昔はあのトンネルを通って橋を渡り、大通り(410号か?)へ出て町へ行った。
2・上に4件の家があった。
3・ダムができて橋が沈み、この道ができたのでトンネルは不要になった。
※ダムの完成が昭和44年なので、そのころまでは使っていたと思われる。
4・今はトンネル入り口が埋まってしまって面影はないが、当時は2トン車が走れた(ええっ!?)。
※忙しい中手を休めて説明してくれた地元の方、ありがとうございました。
お礼を言って軽トラの横を通り過ぎると、彼岸花が歓迎してくれた。
帰り、他の道にも、こぼれんばかりに咲いている。ああ、日本の秋だなあ!
ではまた。
集落から豊英湖へ続く隧道があるという。9月終わりのある日、探しに行ってみた。
気温は27℃もあった。
https://www.google.co.jp/maps/@35.1892221,140.0176727,57m/data=!3m1!1e3
見つけた!ん?やけに小さい。
引きで撮るとこんな感じ・・良いところだが・・
とにかく入り口の穴が小さい・・これでいいのだろうか
これ、人入れないよ!
クモの巣がはっていた・・
ああああ はいりたくないいいい~でも入っちゃう・・
ん?階段になってるぞ・
軍手にライト装備で突入!
中は結構きれいじゃん!
地層や、鶴嘴で掘削の跡が見られ、味がある。
しかし天井にコウモリがいたのだ。ジーッと天井にぶら下がっている。刺激しないよう・そ~っと通り抜けた。
振り返ると、透き通る茶色の羽をはばたかせ、パンパンの腹を見せていた。数匹は飛び回った。
ウウウ・気持ちわるい。鳥と違って、逃げていかないところが不気味なのだ。
道は湖へと向かう
湖(ダム)だ。
この向こうのダムの中に、廃橋つり橋の主塔があったのだが撮り損ねた(不覚!)。とにかく戻ろう。
コウモリに会いたくないので、隧道の上を目指して山を登る。
今出てきた隧道を上から望む。あんなに、枯れ葉が敷き詰められていたのか・
おお、ほっとする、我が愛機の姿。
佇む私を見て、草刈り中の人が手を休めて、近寄ってきて教えてくれた。あの白い軽トラのオーナー。
1・昔はあのトンネルを通って橋を渡り、大通り(410号か?)へ出て町へ行った。
2・上に4件の家があった。
3・ダムができて橋が沈み、この道ができたのでトンネルは不要になった。
※ダムの完成が昭和44年なので、そのころまでは使っていたと思われる。
4・今はトンネル入り口が埋まってしまって面影はないが、当時は2トン車が走れた(ええっ!?)。
※忙しい中手を休めて説明してくれた地元の方、ありがとうございました。
お礼を言って軽トラの横を通り過ぎると、彼岸花が歓迎してくれた。
帰り、他の道にも、こぼれんばかりに咲いている。ああ、日本の秋だなあ!
ではまた。
土気町立土気小学校第2分校跡(現・下大和田公園) [廃墟・廃校・古道・隧道]
このブログも開始から13年を超えている。
最近は、tomi_tomiさん、響さん、ハマコウさんたちのコメントに励まされて、廃隧道・廃校巡りを加速させてもらった。加えて、毎日たくさん来て下さる訪問者の皆さんにも、とても感謝している。
さて、
今日もトコトコDFで、タイムスリップするのだ・・。
今日の目的地は・・・千葉市土気町立土気小学校第2分校跡。ここも創立は古く、歴史のある場所だ。
明治6年創立(以前紹介の曾呂尋常小学校より1年古い!)~明治41年第2分校となる~昭和41年統合により閉校。
県道131号を折れるとすぐ入り口が・・
左折で登ると・・
公園になっている。校舎の基礎も何もないので何もわからない。雰囲気を残すものは入り口の門柱のみ。
砂場らしき跡。当時の物だと嬉しいが、公園になってから作られた可能性もある・・。近所の住民に聞けば一発で分かるが、あいにく誰もいなかった。
奥に簡易トイレもある。
石碑が立っている。
高台なので下の畑や、田が見える。
明治時代でも、甘えたい盛りの子供の中には、「おっとうと、おっかあが、働いてんなあ。一緒にいてえなあ・・・」などと、見つめていた子がいたかもしれない。
何処に行っても廃校は素敵だ・・
ではまた。
目を大切に。
最近は、tomi_tomiさん、響さん、ハマコウさんたちのコメントに励まされて、廃隧道・廃校巡りを加速させてもらった。加えて、毎日たくさん来て下さる訪問者の皆さんにも、とても感謝している。
さて、
今日もトコトコDFで、タイムスリップするのだ・・。
今日の目的地は・・・千葉市土気町立土気小学校第2分校跡。ここも創立は古く、歴史のある場所だ。
明治6年創立(以前紹介の曾呂尋常小学校より1年古い!)~明治41年第2分校となる~昭和41年統合により閉校。
県道131号を折れるとすぐ入り口が・・
左折で登ると・・
公園になっている。校舎の基礎も何もないので何もわからない。雰囲気を残すものは入り口の門柱のみ。
砂場らしき跡。当時の物だと嬉しいが、公園になってから作られた可能性もある・・。近所の住民に聞けば一発で分かるが、あいにく誰もいなかった。
奥に簡易トイレもある。
石碑が立っている。
高台なので下の畑や、田が見える。
明治時代でも、甘えたい盛りの子供の中には、「おっとうと、おっかあが、働いてんなあ。一緒にいてえなあ・・・」などと、見つめていた子がいたかもしれない。
何処に行っても廃校は素敵だ・・
ではまた。
目を大切に。
日天様隧道(トンネル) [廃墟・廃校・古道・隧道]
市原市に鳳来寺観音堂という、国指定重要文化財がある。その近辺に、日天様隧道という、手掘り隧道があるらしい。
昔、農作業や、子供の通学に使われたそうだ。行ってみよう。
そのあと、他へ移動し、隧道を3本回ろう・・・と思っていたのだが・・・・・
観音堂にお参りを済ませ、目指すは手掘り隧道!
※マップに隧道も載っているので、行かれる方は参考にしてください。一人でも気軽に行けます。ただし通り抜けられません。車や、大きいバイクは鳳来寺観音堂駐車場へ。自転車・原付2輪の人は、集落の狭い道を通るので、徐行で通過してください。
その前に、すぐそばに気になる橋があったので、行ってみた。
理想的な田舎の橋。小学校の夏休み、親戚のおばあちゃんの家に来て、毎日遊び、下の川で泳いだり、魚を取ったりしたい。そんなイメージがわくが、もう叶わないんだな。
この橋が気に入ってしまった。しばらくここにいたい。
左中央に石碑が見える・何の石碑か確認してみた。
電気柵に触れない様歩く。
着いたぞ。
左の茂みから山鳥が「ズバババババババ!」と飛び立ち腰を抜かす。なんであんな大きな音やねん。
バイク並みの音だ。
吉沢小学校乃跡?!やった!!!小学校跡だ。
小学校跡地に来られるとは・・ツイてる。
子供たちの明るいエネルギーで満たされた、縁起の良い土地。どこの跡地に行ってもそれを感じる。 だからいつも巡り歩くのだ。
跡地側から橋を望む
もう一度先ほどの写真を見てみよう
橋の向こうに一段高くなった所がある。ここが吉沢小学校跡地なのだ。
そしてその左奥に、移転前の鳳来寺観音堂があったらしい。
もし行かれる方は、このルートで歩くとスムーズに行ける。農作業中の方がいたら許可を取って欲しい。
いったい、いつ頃の小学校なんだろう・・・
話をトンネルに戻そう。
さあ出発!!
トンネル手前左側は、現在排水溝工事の為、重機が稼働しています。邪魔にならぬよう注意。
あったぞ!!日天様トンネル!!!
入り口手前左端にDFを駐輪。重機の跡があるので、たまに通過するかもしれない。端に駐輪する方が良い。
入り口には フムフム・・
??6年にできたらしいが、肝心なところが消えている。農作業だけを考えれば明治の可能性もある・小学校通学使用なら、大正か、昭和・・。この解明が今後の課題だ・・。
昭和56年に 市が350万円で補強してくれたのか・・だから半分はライナープレートで覆われてしまっている。途中から綺麗な地肌が露出する。しかし今はだれも通らないらしい。
コウモリはいませんね・・・いた!!ギャ~!!!(腰をかがめて逃走!)
外は荒れた林・・根性で100メートルくらい下り進んだが、何故か平地は沼のよう・・引き返した。
とにかくこの山は水を持っていて、清水が彼方此方湧き出している。
杉が大きく育っているが、隧道出口下の土地は、約15坪づつ、3段になっている。昔は棚田だったのではないだろうか?(これについては、帰り際に解明されることになる)。
帰りもコウモリを見ないように、腰をかがめてダッシュ!
出口付近でコウモリが大きく舞い、こちらに向かっているように見えてしまい、悲鳴を上げる(笑)。
帰りに農家のご婦人に、トンネルの先の話を聞くと、これまた笑顔で丁寧に話してくれるので、話が弾んでしまい、「よく、金毘羅様に行く人がいるようですよ」というのでUターン。隧道入り口の手前を左折、お墓の横の山道を歩くとすぐあるという。しかしこれが苦難の始まりだった。
良い道じゃん!などと最初は余裕。虚無僧が出てきそうな山道。
しかし行けども行けどもつかない、尾根伝いに歩く。見下ろしても何もない。
切通があるのでここで間違いない!
しかし、たどり着けず山を下りていく、なんとなく道はあるのだ。1キロくらい歩くと向こうから人の話し声が、「田んぼか畑の作業中だ・行ける!!」 しかし話し声は止み、もう聞こえなくなってしまった。頼りのスマホナビが、なぜか起動しない・・現在地をつかめないのだ・・
仕方なく歩くと道がぬかるんできた。さっきから猪の足跡ばかりだ。泥浴びをした跡も数か所あった。出会ったらヤバイ。
どんどん山を下りる。道はすでにない。もう戻れない。行くしかない。
倒木をよじ登り、イノシシの足跡残る、獣道を行く。
しかし慌ててはいけない。廃道探索にはよくあることだ。感を研ぎ澄まし、自分ならどう道を作るか?を考え進む。
素晴らしい農業用水用の隧道もあった、泳ぎたいが、場合ではない。
葦をかき分け山道を見つけた。
やった。2キロくらい歩いて農道にたどり着いた。平地ではないので倍以上の疲労。遭難するかと思った。
トボトボ進む。道は気持ちよい。
これはさっきの橋に向かっている。体内磁石がそう答える。1キロくらい歩く。
やはりそうだった。
※その時の写真はないので、別な写真で代用
※いいな・こんな綺麗な風景・サザエさんみたいな大家族で、田舎でドタバタ愉快に暮らしたかった。
無いものねだりだね。それに田舎は人付き合いも濃いから・・。
さっき、「ここに住んでください(笑)」なんて言われて、嬉しかったけど、仕事場が遠くなるからな~。「あの家売りに出されてるよ」なんて教えてくれる方もいた。
とにかく無事に戻れて良かった。でもすごく楽しかった。冒険だから(無理はいけないけどね)。
天気もいいし風は爽やか、足は棒のよう。というわけで16時近くになってしまい、残りの隧道はいけなかった。
帰り際に、向こうから挨拶して下さった年配のご婦人に、質問しまくった。す~~~ごい親切な人。
頭の回転も記憶力も良さそう。
小学校跡地の質問したら、家からこれを持ってきてくれた。これは解り易い!!
ご婦人に聞いたこと。
1・あの学校跡地は吉沢(きっさわ)小学校という。明治8年開校。同32年富山尋常小学校に合併。同35年吉沢分教場設置、同43年廃止。おそらくその時に廃校になった。
(明治に完結している話だ。
だから出会う数人に聞いても、学校については分からなかったのだ。)
2・後ろに見える山の頂上は城跡だ。登頂を試みた観光客が2回失敗したらしい。たどり着けなかった。
城があった時代、鬼門の方角にあの神社を立てた(道を挟んで、すぐ後ろの小山に鳥居が見える。國常立神社)。
3・私は娘時代に、移転前の鳳来寺観音堂でよく遊び、夏休みの宿題をもっていって、そこでやったこともある。
また、年に一度は敬老席を設け、有志によるダンス発表会が開催され、お祭りのようだった。
まさか国の重要文化財になるとは思わなかった。今も跡地に束石が転がっている。
4・日天様トンネルの向こうは棚田だったらしい(やっぱり!)。今は使っていないので湧水が下に流れ沼地のようになっているのだろう。先に行くのは難しいと思う。私はあちらの橋から富山小学校へ通ったので、トンネルを使わなかった。使ったのはトンネル前の集落の子供だと思う。
親切な方のお陰で色々な謎がスラスラ解けていく。こんなに気持ちの良いことはない。ドーパミンや、セロトニンが分泌されているのを感じる・だからイやなコウモリを我慢してでも、隧道廃校巡りがやりたくなるんだな。過去に生きた先達と繋がれるのだ。生きる強さをもらえる。
親切なご婦人に、丁寧にお礼を言い、別れを告げた。
念のため、移転前の鳳来寺観音堂後跡に行ってみると、ご婦人の言う通り、名残りの束石があった。
その束石・ざっと見て9個あった。
今回小学校跡を見られると思っていなかったので、幸運だった。
明治のうちに消えた、日当たり・風通しが良く、農作業中の保護者も見守り易かった吉沢小学校。
その学校跡地で走りまわる、明治の子供たちを感じることはできた。
ここは30分位で切り上げて、昼食にするつもりだったが時すでにお寿司(古い)。朝食も抜いている。
しかし里見小学校まで行けるそうなので、そこまで行った。走行約5分位か。
里見小学校も廃校なのだが鉄筋なので、撮らなかった。しかし向かいのブロック塀に、ドラえもんやアニメキャラがペンキで描かれ、消えかかっていて何とも良い味わい。ここでも親切な、ガーデニング中のご婦人が、道に出てまで教えてくれた。ここは保育所跡地らしい。
が、バッテリーがぎりぎりで写真が撮れなかった。機会があれば撮りなおして、アップしたいと思う。
とりあえずおにぎり食べたい。ミニストップ発見。
密度の濃いツーリングとなった。おにぎり2個を補給し、家路についた。帰るまでに暗くなるけど、H4ライトがあるから大丈夫。
ではまた。
今、NHK「100分で名著」で、今回の記事につながるテーマを特集しています。
昔、農作業や、子供の通学に使われたそうだ。行ってみよう。
そのあと、他へ移動し、隧道を3本回ろう・・・と思っていたのだが・・・・・
観音堂にお参りを済ませ、目指すは手掘り隧道!
※マップに隧道も載っているので、行かれる方は参考にしてください。一人でも気軽に行けます。ただし通り抜けられません。車や、大きいバイクは鳳来寺観音堂駐車場へ。自転車・原付2輪の人は、集落の狭い道を通るので、徐行で通過してください。
その前に、すぐそばに気になる橋があったので、行ってみた。
理想的な田舎の橋。小学校の夏休み、親戚のおばあちゃんの家に来て、毎日遊び、下の川で泳いだり、魚を取ったりしたい。そんなイメージがわくが、もう叶わないんだな。
この橋が気に入ってしまった。しばらくここにいたい。
左中央に石碑が見える・何の石碑か確認してみた。
電気柵に触れない様歩く。
着いたぞ。
左の茂みから山鳥が「ズバババババババ!」と飛び立ち腰を抜かす。なんであんな大きな音やねん。
バイク並みの音だ。
吉沢小学校乃跡?!やった!!!小学校跡だ。
小学校跡地に来られるとは・・ツイてる。
子供たちの明るいエネルギーで満たされた、縁起の良い土地。どこの跡地に行ってもそれを感じる。 だからいつも巡り歩くのだ。
跡地側から橋を望む
もう一度先ほどの写真を見てみよう
橋の向こうに一段高くなった所がある。ここが吉沢小学校跡地なのだ。
そしてその左奥に、移転前の鳳来寺観音堂があったらしい。
もし行かれる方は、このルートで歩くとスムーズに行ける。農作業中の方がいたら許可を取って欲しい。
いったい、いつ頃の小学校なんだろう・・・
話をトンネルに戻そう。
さあ出発!!
トンネル手前左側は、現在排水溝工事の為、重機が稼働しています。邪魔にならぬよう注意。
あったぞ!!日天様トンネル!!!
入り口手前左端にDFを駐輪。重機の跡があるので、たまに通過するかもしれない。端に駐輪する方が良い。
入り口には フムフム・・
??6年にできたらしいが、肝心なところが消えている。農作業だけを考えれば明治の可能性もある・小学校通学使用なら、大正か、昭和・・。この解明が今後の課題だ・・。
昭和56年に 市が350万円で補強してくれたのか・・だから半分はライナープレートで覆われてしまっている。途中から綺麗な地肌が露出する。しかし今はだれも通らないらしい。
コウモリはいませんね・・・いた!!ギャ~!!!(腰をかがめて逃走!)
外は荒れた林・・根性で100メートルくらい下り進んだが、何故か平地は沼のよう・・引き返した。
とにかくこの山は水を持っていて、清水が彼方此方湧き出している。
杉が大きく育っているが、隧道出口下の土地は、約15坪づつ、3段になっている。昔は棚田だったのではないだろうか?(これについては、帰り際に解明されることになる)。
帰りもコウモリを見ないように、腰をかがめてダッシュ!
出口付近でコウモリが大きく舞い、こちらに向かっているように見えてしまい、悲鳴を上げる(笑)。
帰りに農家のご婦人に、トンネルの先の話を聞くと、これまた笑顔で丁寧に話してくれるので、話が弾んでしまい、「よく、金毘羅様に行く人がいるようですよ」というのでUターン。隧道入り口の手前を左折、お墓の横の山道を歩くとすぐあるという。しかしこれが苦難の始まりだった。
良い道じゃん!などと最初は余裕。虚無僧が出てきそうな山道。
しかし行けども行けどもつかない、尾根伝いに歩く。見下ろしても何もない。
切通があるのでここで間違いない!
しかし、たどり着けず山を下りていく、なんとなく道はあるのだ。1キロくらい歩くと向こうから人の話し声が、「田んぼか畑の作業中だ・行ける!!」 しかし話し声は止み、もう聞こえなくなってしまった。頼りのスマホナビが、なぜか起動しない・・現在地をつかめないのだ・・
仕方なく歩くと道がぬかるんできた。さっきから猪の足跡ばかりだ。泥浴びをした跡も数か所あった。出会ったらヤバイ。
どんどん山を下りる。道はすでにない。もう戻れない。行くしかない。
倒木をよじ登り、イノシシの足跡残る、獣道を行く。
しかし慌ててはいけない。廃道探索にはよくあることだ。感を研ぎ澄まし、自分ならどう道を作るか?を考え進む。
素晴らしい農業用水用の隧道もあった、泳ぎたいが、場合ではない。
葦をかき分け山道を見つけた。
やった。2キロくらい歩いて農道にたどり着いた。平地ではないので倍以上の疲労。遭難するかと思った。
トボトボ進む。道は気持ちよい。
これはさっきの橋に向かっている。体内磁石がそう答える。1キロくらい歩く。
やはりそうだった。
※その時の写真はないので、別な写真で代用
※いいな・こんな綺麗な風景・サザエさんみたいな大家族で、田舎でドタバタ愉快に暮らしたかった。
無いものねだりだね。それに田舎は人付き合いも濃いから・・。
さっき、「ここに住んでください(笑)」なんて言われて、嬉しかったけど、仕事場が遠くなるからな~。「あの家売りに出されてるよ」なんて教えてくれる方もいた。
とにかく無事に戻れて良かった。でもすごく楽しかった。冒険だから(無理はいけないけどね)。
天気もいいし風は爽やか、足は棒のよう。というわけで16時近くになってしまい、残りの隧道はいけなかった。
帰り際に、向こうから挨拶して下さった年配のご婦人に、質問しまくった。す~~~ごい親切な人。
頭の回転も記憶力も良さそう。
小学校跡地の質問したら、家からこれを持ってきてくれた。これは解り易い!!
ご婦人に聞いたこと。
1・あの学校跡地は吉沢(きっさわ)小学校という。明治8年開校。同32年富山尋常小学校に合併。同35年吉沢分教場設置、同43年廃止。おそらくその時に廃校になった。
(明治に完結している話だ。
だから出会う数人に聞いても、学校については分からなかったのだ。)
2・後ろに見える山の頂上は城跡だ。登頂を試みた観光客が2回失敗したらしい。たどり着けなかった。
城があった時代、鬼門の方角にあの神社を立てた(道を挟んで、すぐ後ろの小山に鳥居が見える。國常立神社)。
3・私は娘時代に、移転前の鳳来寺観音堂でよく遊び、夏休みの宿題をもっていって、そこでやったこともある。
また、年に一度は敬老席を設け、有志によるダンス発表会が開催され、お祭りのようだった。
まさか国の重要文化財になるとは思わなかった。今も跡地に束石が転がっている。
4・日天様トンネルの向こうは棚田だったらしい(やっぱり!)。今は使っていないので湧水が下に流れ沼地のようになっているのだろう。先に行くのは難しいと思う。私はあちらの橋から富山小学校へ通ったので、トンネルを使わなかった。使ったのはトンネル前の集落の子供だと思う。
親切な方のお陰で色々な謎がスラスラ解けていく。こんなに気持ちの良いことはない。ドーパミンや、セロトニンが分泌されているのを感じる・だからイやなコウモリを我慢してでも、隧道廃校巡りがやりたくなるんだな。過去に生きた先達と繋がれるのだ。生きる強さをもらえる。
親切なご婦人に、丁寧にお礼を言い、別れを告げた。
念のため、移転前の鳳来寺観音堂後跡に行ってみると、ご婦人の言う通り、名残りの束石があった。
その束石・ざっと見て9個あった。
今回小学校跡を見られると思っていなかったので、幸運だった。
明治のうちに消えた、日当たり・風通しが良く、農作業中の保護者も見守り易かった吉沢小学校。
その学校跡地で走りまわる、明治の子供たちを感じることはできた。
ここは30分位で切り上げて、昼食にするつもりだったが時すでにお寿司(古い)。朝食も抜いている。
しかし里見小学校まで行けるそうなので、そこまで行った。走行約5分位か。
里見小学校も廃校なのだが鉄筋なので、撮らなかった。しかし向かいのブロック塀に、ドラえもんやアニメキャラがペンキで描かれ、消えかかっていて何とも良い味わい。ここでも親切な、ガーデニング中のご婦人が、道に出てまで教えてくれた。ここは保育所跡地らしい。
が、バッテリーがぎりぎりで写真が撮れなかった。機会があれば撮りなおして、アップしたいと思う。
とりあえずおにぎり食べたい。ミニストップ発見。
密度の濃いツーリングとなった。おにぎり2個を補給し、家路についた。帰るまでに暗くなるけど、H4ライトがあるから大丈夫。
ではまた。
今、NHK「100分で名著」で、今回の記事につながるテーマを特集しています。
熊野神社の彼岸花 [廃墟・廃校・古道・隧道]
彼岸花が大好きなので、一昨年、楽天で球根を20球購入、家の横の山に植えた。1年目は3本くらい咲き、2年目の今年、10本くらい咲いた。
一週間で一気に伸びて、開花後一週間で枯れる。名前の通り、お彼岸中に、ひときわ綺麗に咲く。
まだ少ないが、一度植えれば、毎年分球し、増えていくので楽しみにしている。
綺麗に観賞するためには、8月末には雑草を刈り取らなければならない。これが面倒。これでも草刈り機をかけたのだが、竹の根が邪魔で深く刈れないので、良しとする(自分に甘い)。
今年の様子がコレ。右下の密集個所は、もともと自生していたもの。
ポツンと一輪だけ咲いても、鮮やかな赤で存在感がある。
もっと大群を見るためには、名所に行かねばならない。さあ行こう!
以前車で迷い込んで発見した、熊野神社に行ってみた。彼岸花で有名らしい。この季節を待っていた。
人の多い観光地が苦手な方にお勧めしたい。
車も通れるが、道が大変狭いので、走行注意。人通りはほとんどないが、地元農家の方が歩いていたら、特に静かに通り過ぎて欲しい。
ここから参道だ。このまま直進で集落を抜けられる。
母娘連れが1組だけ、鑑賞に来ていた・・
停めて、振り返る。秋はDFのオレンジが映える。
アスファルトも砂色で、江戸時代の道を感じられる。
さらに進むと彼岸花は無くなり、右側の林の中に、熊野神社がある。お参りをしよう。
巨大な杉の横を通ると、荘厳な神社が現れる。駐車場は10台くらい停められると思う。
参拝客もいない。薄暗い林に、ヒグラシが静かに鳴いている。神社の周りは、江戸時代の雰囲気だ。現実に引き戻されることはない。最高の贅沢。
右手に手水舎がある。
何か文字が掘ってある・・
享保16年(1731年)。300年近く前の、吉宗の時代だ。 ここに彫られている・成嶋宇兵衛さんの母君は、おそらく大地主。息子はもちろん、村の為を思い奉納したのであろう。はっきりと「母」と彫られているのを見ると、胸が熱くなる。
翌年に西日本で、享保の大飢饉。12000人もの犠牲者が出る。関東のこの村は、影響を受けつつも、おそらくは大丈夫だったのではないか。それはこの奉納のお陰もあろう・・・
こんな人気のないところに立派な神社。すぐそばに城跡(今はお寺)もあるので、昔から大切にされていたのだ。当時は、さぞにぎわっていたのだろう。
苔むした階段を下りて帰る。ヒグラシが静かに別れを告げる。
ではまた。
一週間で一気に伸びて、開花後一週間で枯れる。名前の通り、お彼岸中に、ひときわ綺麗に咲く。
まだ少ないが、一度植えれば、毎年分球し、増えていくので楽しみにしている。
綺麗に観賞するためには、8月末には雑草を刈り取らなければならない。これが面倒。これでも草刈り機をかけたのだが、竹の根が邪魔で深く刈れないので、良しとする(自分に甘い)。
今年の様子がコレ。右下の密集個所は、もともと自生していたもの。
ポツンと一輪だけ咲いても、鮮やかな赤で存在感がある。
もっと大群を見るためには、名所に行かねばならない。さあ行こう!
以前車で迷い込んで発見した、熊野神社に行ってみた。彼岸花で有名らしい。この季節を待っていた。
人の多い観光地が苦手な方にお勧めしたい。
車も通れるが、道が大変狭いので、走行注意。人通りはほとんどないが、地元農家の方が歩いていたら、特に静かに通り過ぎて欲しい。
ここから参道だ。このまま直進で集落を抜けられる。
母娘連れが1組だけ、鑑賞に来ていた・・
停めて、振り返る。秋はDFのオレンジが映える。
アスファルトも砂色で、江戸時代の道を感じられる。
さらに進むと彼岸花は無くなり、右側の林の中に、熊野神社がある。お参りをしよう。
巨大な杉の横を通ると、荘厳な神社が現れる。駐車場は10台くらい停められると思う。
参拝客もいない。薄暗い林に、ヒグラシが静かに鳴いている。神社の周りは、江戸時代の雰囲気だ。現実に引き戻されることはない。最高の贅沢。
右手に手水舎がある。
何か文字が掘ってある・・
享保16年(1731年)。300年近く前の、吉宗の時代だ。 ここに彫られている・成嶋宇兵衛さんの母君は、おそらく大地主。息子はもちろん、村の為を思い奉納したのであろう。はっきりと「母」と彫られているのを見ると、胸が熱くなる。
翌年に西日本で、享保の大飢饉。12000人もの犠牲者が出る。関東のこの村は、影響を受けつつも、おそらくは大丈夫だったのではないか。それはこの奉納のお陰もあろう・・・
こんな人気のないところに立派な神社。すぐそばに城跡(今はお寺)もあるので、昔から大切にされていたのだ。当時は、さぞにぎわっていたのだろう。
苔むした階段を下りて帰る。ヒグラシが静かに別れを告げる。
ではまた。
ダムの中へ続く廃道(ヨコハマ買い出し紀行編) [廃墟・廃校・古道・隧道]
千葉の有名な廃道のうちの一つ、片倉ダムに沈む廃道がある。
ガードレールがダムへと沈んでいくさまは、世紀末感満載だ。
その昔、小櫃川流域は水害等が多かった。この対策として昭和36年から調査を開始。その後ダム建設が決まった。
それに伴い、水没する村の同意が取れたため、
平成6年にダム工事開始。
平成12年本体完成・試験湛水。
平成13年完工・平成14年ダム管理開始となった。
今回はこの物件にチャレンジだ!
9月のある土曜日。茶色の建物・片倉ダム管理所・前の道路を挟んで向かい側にDFを停める。
ロープの間から突入(自己責任)。
どのくらい歩くんだろう。
でもワクワクする気持ちが、エネルギーとなる。
絶対到達してやる。
もう誰も見ない標識が雰囲気を盛り上げる。
裏側
うお!! 行く手を阻む、障害物・・
心が折れそう。ここで引き返した人も結構いるのでは・・・
「道ってレベルじゃねーぞ!!」(笑)
負けるもんか。茂原隧道の藪漕ぎで慣れたわ!
この区間は、アスファルトが見えてきたから、まだ良い方だ。
横にはダムが見える。
枯れ枝が顔に当たる・・クモの巣が顔に巻き付く・・・足場が悪くて気持ちわるい…腰をかがめて1メートルくらいの枝を延々くぐり続ける・・ヘビや山ビルは大丈夫だろう(多分)。
でも、ダム向こうの山の中に看板があり「山ビルが入るので、ズボンの裾をテープで留めましょう」と書いてあった。この辺は多く生息しているのだ。が、現在ただのジーパンで突入中(テープなし)。
とにかく気持ち悪いし早く着きたい・・・・暫し苦難の道を進む・・・・・
あっ!あれは!!!
見えたぞ!!!ついに到達したぞ!!
幻想的・・
「ヨコハマ買い出し紀行」の世界観だ・・
そっくり・・・
右のがけに沿って道があったのだろう。ここを通って家路についていた人が見たら、何を思うのか・。
暫し放心状態で堪能・・・
水面を渡る風が、たまらなく心地よい・・
ミッションコンプリート!。本部へ引き上げよう。振り返って、と・・・
いや帰るの面倒すぎ!!!!(T_T)
おしまい。
あ、忘れてた、帰りは鴨川に寄って、13:30頃昼食。
いつも混んでる名代亭に、土曜日に奇跡の滑り込み。何と客は自分だけ・いつもは外で待つことが多い。(途中で他の客来ました)。
おらが丼美味いよ。1650円。(芸能人も多数来店・色紙が沢山)。
ではまた。
この漫画好きなんです。古いけど・・
最近だと、これも世界観近いか・・・・廃墟廃道好きにピッタリな一冊。
このヘルメット凄く欲しい。バイクのトレッキングにぴったり。山道で不意に出会った人に道を聞いたりするのにジェットヘルメットは良い。ちゃんと話すときは、失礼なのでヘルメット取りますが。給水もしやすいし、バイザーはホント日よけになるし、インナーバイザーで日焼けも軽減・目も保護。
※先日、1年位迷った上、ついに注文・購入しました(白)。そのうち、ブログに登場するかもしれません。お楽しみに。
ガードレールがダムへと沈んでいくさまは、世紀末感満載だ。
その昔、小櫃川流域は水害等が多かった。この対策として昭和36年から調査を開始。その後ダム建設が決まった。
それに伴い、水没する村の同意が取れたため、
平成6年にダム工事開始。
平成12年本体完成・試験湛水。
平成13年完工・平成14年ダム管理開始となった。
今回はこの物件にチャレンジだ!
9月のある土曜日。茶色の建物・片倉ダム管理所・前の道路を挟んで向かい側にDFを停める。
ロープの間から突入(自己責任)。
どのくらい歩くんだろう。
でもワクワクする気持ちが、エネルギーとなる。
絶対到達してやる。
もう誰も見ない標識が雰囲気を盛り上げる。
裏側
うお!! 行く手を阻む、障害物・・
心が折れそう。ここで引き返した人も結構いるのでは・・・
「道ってレベルじゃねーぞ!!」(笑)
負けるもんか。茂原隧道の藪漕ぎで慣れたわ!
この区間は、アスファルトが見えてきたから、まだ良い方だ。
横にはダムが見える。
枯れ枝が顔に当たる・・クモの巣が顔に巻き付く・・・足場が悪くて気持ちわるい…腰をかがめて1メートルくらいの枝を延々くぐり続ける・・ヘビや山ビルは大丈夫だろう(多分)。
でも、ダム向こうの山の中に看板があり「山ビルが入るので、ズボンの裾をテープで留めましょう」と書いてあった。この辺は多く生息しているのだ。が、現在ただのジーパンで突入中(テープなし)。
とにかく気持ち悪いし早く着きたい・・・・暫し苦難の道を進む・・・・・
あっ!あれは!!!
見えたぞ!!!ついに到達したぞ!!
幻想的・・
「ヨコハマ買い出し紀行」の世界観だ・・
そっくり・・・
右のがけに沿って道があったのだろう。ここを通って家路についていた人が見たら、何を思うのか・。
暫し放心状態で堪能・・・
水面を渡る風が、たまらなく心地よい・・
ミッションコンプリート!。本部へ引き上げよう。振り返って、と・・・
いや帰るの面倒すぎ!!!!(T_T)
おしまい。
あ、忘れてた、帰りは鴨川に寄って、13:30頃昼食。
いつも混んでる名代亭に、土曜日に奇跡の滑り込み。何と客は自分だけ・いつもは外で待つことが多い。(途中で他の客来ました)。
おらが丼美味いよ。1650円。(芸能人も多数来店・色紙が沢山)。
ではまた。
この漫画好きなんです。古いけど・・
最近だと、これも世界観近いか・・・・廃墟廃道好きにピッタリな一冊。
このヘルメット凄く欲しい。バイクのトレッキングにぴったり。山道で不意に出会った人に道を聞いたりするのにジェットヘルメットは良い。ちゃんと話すときは、失礼なのでヘルメット取りますが。給水もしやすいし、バイザーはホント日よけになるし、インナーバイザーで日焼けも軽減・目も保護。
※先日、1年位迷った上、ついに注文・購入しました(白)。そのうち、ブログに登場するかもしれません。お楽しみに。
長南町立坂本小学校跡2(取材編) [廃墟・廃校・古道・隧道]
ツーリングの帰り、以前紹介した坂本小学校跡へ行ってみた。明治17年~昭和46年まで存在した小学校だ。前回は全く情報がなく、何もわからなかったから、気になっていたのだ。時刻はもう17時を回っていた。
学校前の道で、おばあちゃんが、腰を曲げながら枯れ草を燃やしていた。取材できるかもと、行ってみた。
私が学校跡が好きな事、たくさん巡っている事・を伝えると、おばあちゃんは笑顔で答えてくれた。
何十年も、野良仕事で苦労のにじんだ手をした彼女は、日に焼けた笑顔がとても優しく楽しそうで、福相が感じられた。85歳だと言った。そして耳が遠かった。
色々話した後で、お礼を言い、「私は小学校跡を見てから帰ります」と言って、敷地に入った。
おばあちゃんは草を始末して、敷地に来てくれた。
石碑の後ろの丸太に、二人並んで座った。
以下、85歳のおばあちゃんの解説を、箇条書きしてみた。前回の訪問ではわからなかったこと、間違っていたことを知れた。心が温かくなるものもあった。ずっと楽しそうに話してくれた。
1・この辺は猪・猿・タヌキ・ハクビシンが出て、畑の落花生やスイカを一晩で食べてしまうことがある。
マムシが沢山出たこともあり、草刈り鎌で首を押さえながら、竹の先端を二つに割ったもので挟んで、捕まえ、アスファルトにたたきつけて処分した(※凄い!!)。今は出なくなった。
草刈りをしていて、一昨日はハチに刺された(※見ると、左手首がかなり腫れていました)。
2・この小学校は2クラスあり、大体30名ずつくらいいたと思う。1~6年までいた。兵隊さんが二人来たこともある。
「運動会は盛り上がったよ。今は校舎も何もなくなって寂しいね。お兄さん(拙者です)がこの土地を買って何か始めてくれればいいのにね(笑)」。
3・祠(天神様)は個人所有の物で、この間大工さんが補修していった。
※私はご神体を見落としていました。ガラスの中に御神体らしきものが収まっていました。鳥居もあります。
(右・白い点の下は猪の罠、全然捕まらないらしい)。
4・基礎が残っているが、小学校の物ではなく、選挙の投票所の基礎である。選挙前に掘っ立て小屋(おそらくプレハブの事)が建てられ、選挙が終わると掘っ立て小屋は撤去される。選挙のたびに、これを繰り返している。
当時の校舎は、向かいの山に沿って、奥に横長に建てられていた。学校の基礎は残っていない。
※そうだったのか、セメントが新しいな?とは思っていたが・・
5・「私が、この学校の下の家へお嫁入りした日、当時は自動車なんてないから、花嫁衣装を着て歩いてきた。 花嫁行列を見た小学生達が、校庭の縁に ずらっと並んで(写真のピンクの点の様に)皆で私を迎えてくれたんだよ。」
※こういう話が聞きたかった・聞けて本当に良かった。にこやかな80代のおばあちゃんの人生は、この小学校と共にあったのだろう。つらい時も楽しい時も。この人が幸せならもう良い。取材は終わりだ。
この方のお嫁入は、きっと昭和20~30年代の事だろう・現代とは違い、当時、お嫁入は、大イベントであったのだ。
花嫁行列には、近所の方々や、子供たちも浮足立ち、通過する町や村は大騒ぎになったことだろう。
15分位話しただろうか・私はそろそろ帰りますと告げた。おばあちゃんは、「遅いから気を付けて帰んなさいよ」と言って歩き出した。私はDFのリアボックスにあった、シュークリームを一個プレゼントした。「え、何で、逆じゃないよこっちがもらうなんて・・・まあまあ、ありがとうございます。」と言って、腰を曲げてゆっくり帰って行った。が、DFが発進する瞬間振り返り、お辞儀をしてくれて、私もお辞儀をした。
DFありがとう。もう帰ろう。こんな気持ちで帰れて幸せだ。今から帰ると、帰宅時は真っ暗になるが、DFの明るいH4球ライトがあれば安心だ。
夕暮れの山を見つめながら、二人で丸太に座り会話した今日。思い出した今、なんか涙が出てしまいました。
学校前の道で、おばあちゃんが、腰を曲げながら枯れ草を燃やしていた。取材できるかもと、行ってみた。
私が学校跡が好きな事、たくさん巡っている事・を伝えると、おばあちゃんは笑顔で答えてくれた。
何十年も、野良仕事で苦労のにじんだ手をした彼女は、日に焼けた笑顔がとても優しく楽しそうで、福相が感じられた。85歳だと言った。そして耳が遠かった。
色々話した後で、お礼を言い、「私は小学校跡を見てから帰ります」と言って、敷地に入った。
おばあちゃんは草を始末して、敷地に来てくれた。
石碑の後ろの丸太に、二人並んで座った。
以下、85歳のおばあちゃんの解説を、箇条書きしてみた。前回の訪問ではわからなかったこと、間違っていたことを知れた。心が温かくなるものもあった。ずっと楽しそうに話してくれた。
1・この辺は猪・猿・タヌキ・ハクビシンが出て、畑の落花生やスイカを一晩で食べてしまうことがある。
マムシが沢山出たこともあり、草刈り鎌で首を押さえながら、竹の先端を二つに割ったもので挟んで、捕まえ、アスファルトにたたきつけて処分した(※凄い!!)。今は出なくなった。
草刈りをしていて、一昨日はハチに刺された(※見ると、左手首がかなり腫れていました)。
2・この小学校は2クラスあり、大体30名ずつくらいいたと思う。1~6年までいた。兵隊さんが二人来たこともある。
「運動会は盛り上がったよ。今は校舎も何もなくなって寂しいね。お兄さん(拙者です)がこの土地を買って何か始めてくれればいいのにね(笑)」。
3・祠(天神様)は個人所有の物で、この間大工さんが補修していった。
※私はご神体を見落としていました。ガラスの中に御神体らしきものが収まっていました。鳥居もあります。
(右・白い点の下は猪の罠、全然捕まらないらしい)。
4・基礎が残っているが、小学校の物ではなく、選挙の投票所の基礎である。選挙前に掘っ立て小屋(おそらくプレハブの事)が建てられ、選挙が終わると掘っ立て小屋は撤去される。選挙のたびに、これを繰り返している。
当時の校舎は、向かいの山に沿って、奥に横長に建てられていた。学校の基礎は残っていない。
※そうだったのか、セメントが新しいな?とは思っていたが・・
5・「私が、この学校の下の家へお嫁入りした日、当時は自動車なんてないから、花嫁衣装を着て歩いてきた。 花嫁行列を見た小学生達が、校庭の縁に ずらっと並んで(写真のピンクの点の様に)皆で私を迎えてくれたんだよ。」
※こういう話が聞きたかった・聞けて本当に良かった。にこやかな80代のおばあちゃんの人生は、この小学校と共にあったのだろう。つらい時も楽しい時も。この人が幸せならもう良い。取材は終わりだ。
この方のお嫁入は、きっと昭和20~30年代の事だろう・現代とは違い、当時、お嫁入は、大イベントであったのだ。
花嫁行列には、近所の方々や、子供たちも浮足立ち、通過する町や村は大騒ぎになったことだろう。
15分位話しただろうか・私はそろそろ帰りますと告げた。おばあちゃんは、「遅いから気を付けて帰んなさいよ」と言って歩き出した。私はDFのリアボックスにあった、シュークリームを一個プレゼントした。「え、何で、逆じゃないよこっちがもらうなんて・・・まあまあ、ありがとうございます。」と言って、腰を曲げてゆっくり帰って行った。が、DFが発進する瞬間振り返り、お辞儀をしてくれて、私もお辞儀をした。
DFありがとう。もう帰ろう。こんな気持ちで帰れて幸せだ。今から帰ると、帰宅時は真っ暗になるが、DFの明るいH4球ライトがあれば安心だ。
夕暮れの山を見つめながら、二人で丸太に座り会話した今日。思い出した今、なんか涙が出てしまいました。
長南町立坂本小学校跡 [廃墟・廃校・古道・隧道]
※お久しぶりです。今回の記事は、休養前に、あらかた作成してあったので、写真が多めです。
今後は写真は少なくなります。
過日の曾呂尋常小学校分教場跡訪問の、興奮冷めやらぬ中、
千葉県道293号茂原環状線を西に向けDFで走行中、大きな石の門を発見!
「あれは、廃寺か、廃校の門だ」とピンときた。すぐ調査開始!
門前にDFを停める。
坂本小学校・とある・やはり小学校跡か・・
裏を見てみよう。明治17年8月創立!! 昭和46年4月長南小学校に統合・とある。
1884年創立か・曽呂尋常小学校分教場創立の10年後だ・138年前。すごいなあ!
こちらは統合されて校舎は残っていない。
入って正面はこのようになっている・・ん!?
基礎が残っている。かなり小さい建物だ。統合近い年代には、生徒数も少なく、分校のように縦割りのクラスだったかも知れない。
写真はないが、入って左には、小さな鳥居と、祠があるのだ。しかし祠の中はカラだ。ご神体らしきものもない。閉校に伴い、他の神社に遷座・されたのだろうか。
校舎横の崖
入って右側。
コンパクトで、校舎左を山に守られた、のどかな立地。鳥の声が優しく響いている。
此処も、地元の方が草刈りをしているのだろう。地元の方々と共に、末永くこの平和な空間が続きますように。
石碑裏の倒木に腰掛け、暫し、明治の子供たちに思いを馳せる。至福の時間だ。小学校跡はなぜこうも落ち着くのだろう。
大勢の子供たちの、心と体を育んだ場所。今はその役目を終え、小鳥の声と、風の音しかしない。
水筒持参でおにぎりなど食べたい。それほど素敵な良い場所だ。
ここは本当に、ネットにも情報が全くない。情報0だ。
ならばと、地元の方に取材したかったが、できそうな人がいなかった。誰もおらん・・・
びっくりエピソードや、ほのぼのエピソードを得られるかもしれない。機会があれば再度取材したい。
でも、ネットにも情報がない廃校を見つけたので嬉しい。
さて、そろそろ帰ろうか・・
ではまた。
鴨川の曾呂尋常小学校分教場跡 [廃墟・廃校・古道・隧道]
ランドクルーザーを後にし、次の目的地、曽呂尋常小学校分教場跡に向かう。明治7年に建てられたものだ(148年前!!)。その後、明治42年に、曽呂村内の4つの小学校を統合した、曽呂小学校が開校(地図で測ってみると、分教場から、おおよそ4キロくらい離れている)。
その為、ここは、4年生以下の生徒が学ぶ分教場として残された。昭和48年に閉校。
倒壊が進んでいる。立ち入り禁止や・解体になる前に、ぜひ皆さんに見に行って欲しい。今が最後のチャンスかもしれない。タイムスリップもできる。
もし、草刈や補修などの、維持管理作業のお年寄りに出会ったら、感謝の言葉をかけて欲しい。
地元の人にあったら「素敵な建物ですね」と言ってあげて欲しい。観光客の少ない場所だけに、とても喜ぶと思う。
国道410を南下し嶺岡の「酪農の里」を通過、県道89号線(鴨川富山線)へ左折、東へ進むと右側に大きな看板がある。解り易い。この写真左の細道を入る。
入り口途中に西神社がある
上って参拝した。境内には鴨川市指定天然記念物の大杉(樹高25M)がある。
サッシにリフォームしてあるが、長い歴史がありそうだ。
神社の石碑には、萬延(万延)2年・とある(1861年だ)。161年前なのだ。
学校は西神社の裏手にある。静寂を保つため、DFを押して歩く。
木漏れ日のマーガレット小径を歩くと、明るい日差しの降り注ぐグラウンドが見えてきた。
最初にあるのはトイレ
臭気を逃がすためだと思われるが、2重になったこの小さな屋根、何とお洒落なのだろう。古い日本家屋の、こういうデザインが好きだ。しっかり瓦も乗って、可愛い。
手前側は男子小用だったらしいが、ご覧のように木枠のみとなっている。
男女共用の建物であるから、きっと当時は、人目を盗んで恋文を渡す子もいただろう♡。
便器は取り外したのかも知れない。昭和48年に閉校となるまで使われていたので、便器がはめてあったはずだ。明治頃の「木製便器」といったスタイルではないだろう(それはそれで見てみたいが)。最初はそうだったとしても、途中からリフォームするだろう。
推測だが、陶器の便器をはめておくと、観光客が「使用して」しまうから、トイレの機能はないよ・という意思表示に、取り外したのだと思う。
※なぜかトイレの写真が楽しい(^^)。
一番奥は倒壊が進んでいる。
昇降口
当時は40名くらいの生徒がいたそう。
グラウンド側から。壁面左に、帽子掛けのような、金具のついたものが並んでいる。下には下駄箱があり、地面にはすのこが敷いてあったことだろう
教室
小学校全景
この日は土曜日だったが、誰もいなかった。流れる静かな時間。
草履で駆け回る明治の子供たちに、思いを馳せながら、暫し佇む。その頃の子供たちは、もうこの世にいない。
できれば当時の子供たちに、宝物を見せてもらいたい。メンコやベーゴマはまだないかもしれないし、日本酒のキャップ集めも無理か。飴玉さえも高級品だろうし。物がない時代だから、竹とんぼや竹馬・女子ならお手玉くらいはあったか。おそらく当時は、子沢山の上、子供に対する人権意識もまだ低く、躾けも厳しく、農作業手伝い必至。そんな中、明治~大正~昭和初期の苦難の時代を生きた当時の子供たち。そんな彼らのコレクションを「すごいなあ、カッコイイな」思い切り褒めてあげたい。一時的かもしれないが、アイデンティティを向上させる言葉をかけてあげたい。どう考えても不可能ではあるが、廃校にいると、そんなことばかり浮かんでくる。
子供たちの、命のバトンのお陰で、今の平和な日本があると思うのだ。
のほほんとツーリングできるのも、当たり前のことではないと思う。人生の先達に感謝だ。
隣の部屋(職員室かも・)
もう一つピンクの校舎がある。※2棟全景もう少し後で出します。
これが最奥のピンクの校舎。
なんだか小部屋感があって住みやすそう。用務員さんがいたのか?畳もいい感じ。
校舎最奥のドアからトイレに行ける。こちらはまだ使えそう(でも使ってはいけません)。
グラウンド左奥にあるこの給水塔(写真右・樹の下)。
井戸水を汲み上げていたそう。
近づいてみる・・
入り口側に戻ってみよう。地元の方が維持管理に草刈りをして下さるそうで、グラウンドは綺麗。
此処の卒業生、水田三喜男先生の業績をたたえる石碑。
この方のお陰で、この学校は約50年の間、取り壊されず、保存されているらしい。詳細は後半で。
細長い校舎全体を撮るのは難しい。魚眼レンズが必要か・・
この分教場は、たくさんブログに乗っているが、建物の詳細はほぼ無い。
取材の出番だ!
地元のお店や、その他の方に取材をさせて頂いた。とても親切に明るく教えてくれた。
1・奥のピンクの建物は保育園!(多分このブログが初の情報!)赤ちゃんではなく、就学前児くらいからいたらしい(月齢で分ける際に必要だから、小部屋に仕切ってあるのかも)。当時は畳はない。用務員さんもいなかった。
2・畳は、閉校になってから、地元民の寄り合いで使うために入れた。
3・保存会も発足してはいるが、補修・維持に・億単位のお金がかかる。市には予算がない。高齢化も進み、地元民が草刈りをするのが精いっぱい。ただ朽ちていくのを見ているしかない。
4.曽呂小学校は低学年の足では遠すぎてかわいそうなので、此処を分教場として4年生まで学ばせた。
曽呂小まで、子供の足で2時間~2時間半くらいかかるらしい。
県道から保育園が見える。
※屋根は傾き、床板は割れ、窓は開けっぱなしで朽ちていく一方ですが、土足で教室に入ったり、倒壊を加速させる行為はやめてください。外から覗いて写真を撮るだけにしてください。少しでも延命させてあげましょう。村の人も望んでいます。 普通ならすぐロープを張って、近寄れなくしたり、遠くから写真だけしか取れない状態にする自治体が多いです。鴨川市の優しさを無駄にしないで・。
ここで、旧水田家住宅、へ行ってみた。すぐ近くにある。
此処の卒業生で、大蔵大臣にまで上り詰めた、水田三喜男先生の生家。この分教場跡が残っているのも、保存会があるのもこの方のお陰。地元を愛し、戦後の日本の復興に尽力し、城西大学を作ったり、人徳のある凄い人らしい。地主・村長の息子である。山を沢山持っていたため、当時は、貴重な木材が高く売れたことも、富豪要因の一つだったらしい。
近所に生家が整備されて残っている。長屋門には馬を2頭!!入れられるようになっている(スゴイ!・)。
イメージ※「父上、馬で田んぼの見回りに行ってきます」「三喜男、気をつけてな」「はい」
「ハッ!」(馬の横腹を蹴る)パカパッパカパッパカ・・・BGM(仮面の忍者赤影)(^^)。
※自分で言っておいて夢を壊すようだが、実際は軽トラ・トラクター代わりの農耕馬だと思う(笑)。
質問すれば、係のおじさんが説明もしてくれるし、明治の日本家屋に入れて楽しい。おすすめ。正直、現代でも住めそうな快適さ。囲炉裏でいぶされた天井の梁が、涼し気。扇風機で、空気を循環させている。間接照明で、観光客をもてなしてくれている。
明治づくりの玄関には、畳が4畳敷いてあって、来客と話が弾みそう。部屋まで上げなくても、玄関先ってのがまた、話が盛り上がったりするかも・・つか、ここは大地主の村長だから、お客も多く、いちいち全員家に上げていられないから、玄関先で捌く必要もあったのだろう。
※これは昭和になってからは見られない造りだそうです。4というのが縁起わるいから。
昭和以降の、新築の際は、違う畳数に変えられたそうです。
※ぜひ見に行ってください。
さあ曽呂小学校へ行ってみよう。2時間以上かかる学校とはどんな所だ!
途中の山が気持ちいいことこの上なし!バイクの向こうは谷になっており、棚田が連なる。
東に進むとやっと曽呂小学校が、確かに遠い。確かに分教場から2時間はかかるな・・・アップダウンもきついし、通っていた5~6年生カワイソス・・
しかもここも平成27年に閉校・寂しい。
閉校は寂しいが、皆で訪問して地元を盛り上げるのもいいかもしれない。皆さんにも、ぜひ訪れて頂きたい。
今回も夢中で取材(という体で、楽しく会話してるだけ)と、DFで爆走の連続で昼飯を忘れていた、(朝も食べてない)もう15時を回りそう。
なるべく地元の安い店・・おどや長狭店にした。地元のスーパーはそこの生活感を感じられて好きなのだ。
多分サラダも食べた気がするが、メインはコレ。電子レンジで加温して、店外へ。
屋外に座り、店横の空き地で、伸び放題のタケノコを見ながら、食べた。
今日も満喫したなあ。
帰り際、パパのYBR125の後ろに乗って、6歳ぐらいの少女が買い物にやってきた。DFをジ~ッとみていた。原2に興味あんのかな。親の影響だね。将来の女子ライダー候補がまた一人(o^―^o)ニコ。
最後に、鴨川の海に別れを告げた。原2とは言え、快適に長距離移動ができるDFに、感謝だ。
ではまた。
その為、ここは、4年生以下の生徒が学ぶ分教場として残された。昭和48年に閉校。
倒壊が進んでいる。立ち入り禁止や・解体になる前に、ぜひ皆さんに見に行って欲しい。今が最後のチャンスかもしれない。タイムスリップもできる。
もし、草刈や補修などの、維持管理作業のお年寄りに出会ったら、感謝の言葉をかけて欲しい。
地元の人にあったら「素敵な建物ですね」と言ってあげて欲しい。観光客の少ない場所だけに、とても喜ぶと思う。
国道410を南下し嶺岡の「酪農の里」を通過、県道89号線(鴨川富山線)へ左折、東へ進むと右側に大きな看板がある。解り易い。この写真左の細道を入る。
入り口途中に西神社がある
上って参拝した。境内には鴨川市指定天然記念物の大杉(樹高25M)がある。
サッシにリフォームしてあるが、長い歴史がありそうだ。
神社の石碑には、萬延(万延)2年・とある(1861年だ)。161年前なのだ。
学校は西神社の裏手にある。静寂を保つため、DFを押して歩く。
木漏れ日のマーガレット小径を歩くと、明るい日差しの降り注ぐグラウンドが見えてきた。
最初にあるのはトイレ
臭気を逃がすためだと思われるが、2重になったこの小さな屋根、何とお洒落なのだろう。古い日本家屋の、こういうデザインが好きだ。しっかり瓦も乗って、可愛い。
手前側は男子小用だったらしいが、ご覧のように木枠のみとなっている。
男女共用の建物であるから、きっと当時は、人目を盗んで恋文を渡す子もいただろう♡。
便器は取り外したのかも知れない。昭和48年に閉校となるまで使われていたので、便器がはめてあったはずだ。明治頃の「木製便器」といったスタイルではないだろう(それはそれで見てみたいが)。最初はそうだったとしても、途中からリフォームするだろう。
推測だが、陶器の便器をはめておくと、観光客が「使用して」しまうから、トイレの機能はないよ・という意思表示に、取り外したのだと思う。
※なぜかトイレの写真が楽しい(^^)。
一番奥は倒壊が進んでいる。
昇降口
当時は40名くらいの生徒がいたそう。
グラウンド側から。壁面左に、帽子掛けのような、金具のついたものが並んでいる。下には下駄箱があり、地面にはすのこが敷いてあったことだろう
教室
小学校全景
この日は土曜日だったが、誰もいなかった。流れる静かな時間。
草履で駆け回る明治の子供たちに、思いを馳せながら、暫し佇む。その頃の子供たちは、もうこの世にいない。
できれば当時の子供たちに、宝物を見せてもらいたい。メンコやベーゴマはまだないかもしれないし、日本酒のキャップ集めも無理か。飴玉さえも高級品だろうし。物がない時代だから、竹とんぼや竹馬・女子ならお手玉くらいはあったか。おそらく当時は、子沢山の上、子供に対する人権意識もまだ低く、躾けも厳しく、農作業手伝い必至。そんな中、明治~大正~昭和初期の苦難の時代を生きた当時の子供たち。そんな彼らのコレクションを「すごいなあ、カッコイイな」思い切り褒めてあげたい。一時的かもしれないが、アイデンティティを向上させる言葉をかけてあげたい。どう考えても不可能ではあるが、廃校にいると、そんなことばかり浮かんでくる。
子供たちの、命のバトンのお陰で、今の平和な日本があると思うのだ。
のほほんとツーリングできるのも、当たり前のことではないと思う。人生の先達に感謝だ。
隣の部屋(職員室かも・)
もう一つピンクの校舎がある。※2棟全景もう少し後で出します。
これが最奥のピンクの校舎。
なんだか小部屋感があって住みやすそう。用務員さんがいたのか?畳もいい感じ。
校舎最奥のドアからトイレに行ける。こちらはまだ使えそう(でも使ってはいけません)。
グラウンド左奥にあるこの給水塔(写真右・樹の下)。
井戸水を汲み上げていたそう。
近づいてみる・・
入り口側に戻ってみよう。地元の方が維持管理に草刈りをして下さるそうで、グラウンドは綺麗。
此処の卒業生、水田三喜男先生の業績をたたえる石碑。
この方のお陰で、この学校は約50年の間、取り壊されず、保存されているらしい。詳細は後半で。
細長い校舎全体を撮るのは難しい。魚眼レンズが必要か・・
この分教場は、たくさんブログに乗っているが、建物の詳細はほぼ無い。
取材の出番だ!
地元のお店や、その他の方に取材をさせて頂いた。とても親切に明るく教えてくれた。
1・奥のピンクの建物は保育園!(多分このブログが初の情報!)赤ちゃんではなく、就学前児くらいからいたらしい(月齢で分ける際に必要だから、小部屋に仕切ってあるのかも)。当時は畳はない。用務員さんもいなかった。
2・畳は、閉校になってから、地元民の寄り合いで使うために入れた。
3・保存会も発足してはいるが、補修・維持に・億単位のお金がかかる。市には予算がない。高齢化も進み、地元民が草刈りをするのが精いっぱい。ただ朽ちていくのを見ているしかない。
4.曽呂小学校は低学年の足では遠すぎてかわいそうなので、此処を分教場として4年生まで学ばせた。
曽呂小まで、子供の足で2時間~2時間半くらいかかるらしい。
県道から保育園が見える。
※屋根は傾き、床板は割れ、窓は開けっぱなしで朽ちていく一方ですが、土足で教室に入ったり、倒壊を加速させる行為はやめてください。外から覗いて写真を撮るだけにしてください。少しでも延命させてあげましょう。村の人も望んでいます。 普通ならすぐロープを張って、近寄れなくしたり、遠くから写真だけしか取れない状態にする自治体が多いです。鴨川市の優しさを無駄にしないで・。
ここで、旧水田家住宅、へ行ってみた。すぐ近くにある。
此処の卒業生で、大蔵大臣にまで上り詰めた、水田三喜男先生の生家。この分教場跡が残っているのも、保存会があるのもこの方のお陰。地元を愛し、戦後の日本の復興に尽力し、城西大学を作ったり、人徳のある凄い人らしい。地主・村長の息子である。山を沢山持っていたため、当時は、貴重な木材が高く売れたことも、富豪要因の一つだったらしい。
近所に生家が整備されて残っている。長屋門には馬を2頭!!入れられるようになっている(スゴイ!・)。
イメージ※「父上、馬で田んぼの見回りに行ってきます」「三喜男、気をつけてな」「はい」
「ハッ!」(馬の横腹を蹴る)パカパッパカパッパカ・・・BGM(仮面の忍者赤影)(^^)。
※自分で言っておいて夢を壊すようだが、実際は軽トラ・トラクター代わりの農耕馬だと思う(笑)。
質問すれば、係のおじさんが説明もしてくれるし、明治の日本家屋に入れて楽しい。おすすめ。正直、現代でも住めそうな快適さ。囲炉裏でいぶされた天井の梁が、涼し気。扇風機で、空気を循環させている。間接照明で、観光客をもてなしてくれている。
明治づくりの玄関には、畳が4畳敷いてあって、来客と話が弾みそう。部屋まで上げなくても、玄関先ってのがまた、話が盛り上がったりするかも・・つか、ここは大地主の村長だから、お客も多く、いちいち全員家に上げていられないから、玄関先で捌く必要もあったのだろう。
※これは昭和になってからは見られない造りだそうです。4というのが縁起わるいから。
昭和以降の、新築の際は、違う畳数に変えられたそうです。
※ぜひ見に行ってください。
さあ曽呂小学校へ行ってみよう。2時間以上かかる学校とはどんな所だ!
途中の山が気持ちいいことこの上なし!バイクの向こうは谷になっており、棚田が連なる。
東に進むとやっと曽呂小学校が、確かに遠い。確かに分教場から2時間はかかるな・・・アップダウンもきついし、通っていた5~6年生カワイソス・・
しかもここも平成27年に閉校・寂しい。
閉校は寂しいが、皆で訪問して地元を盛り上げるのもいいかもしれない。皆さんにも、ぜひ訪れて頂きたい。
今回も夢中で取材(という体で、楽しく会話してるだけ)と、DFで爆走の連続で昼飯を忘れていた、(朝も食べてない)もう15時を回りそう。
なるべく地元の安い店・・おどや長狭店にした。地元のスーパーはそこの生活感を感じられて好きなのだ。
多分サラダも食べた気がするが、メインはコレ。電子レンジで加温して、店外へ。
屋外に座り、店横の空き地で、伸び放題のタケノコを見ながら、食べた。
今日も満喫したなあ。
帰り際、パパのYBR125の後ろに乗って、6歳ぐらいの少女が買い物にやってきた。DFをジ~ッとみていた。原2に興味あんのかな。親の影響だね。将来の女子ライダー候補がまた一人(o^―^o)ニコ。
最後に、鴨川の海に別れを告げた。原2とは言え、快適に長距離移動ができるDFに、感謝だ。
ではまた。
新品 ヤマハ 純正 バイク 部品 YBR125 リアブレーキシュー 10B-WF53E-00 YB-1 TW225E メイト ニュースメイト
- 出版社/メーカー: ヤマハ(YAMAHA)
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廃道に眠る・謎のランドクルーザー [廃墟・廃校・古道・隧道]
千葉の廃道好きにはあまりに有名な、廃隧道入り口に捨てられたランドクルーザーがある。
過去にその写真を見た時、車の不法投棄は決して許されるものではないが、あまりの幻想的な美しさに、うっとりしてしまった。
廃道となった旧県道、その先にあるのだ。勇気を出して行ってみよう。行けなかったら戻ればいい。
天気は最高。冒険するのに最高の相棒、DF125Eで、爽快に千葉県を南下する。冒険すると、生きてる実感が得られる。
到着した・。
林道のようにゲートがある、横から入れるようだ。徒歩で行くしかない。何キロ歩くのだろう。
同好の士がいればいいのだが・・誰とも会わず・不安はつのる。ガードレール右は法面、15メートルくらいか。下は現在の県道。
ガードレールが廃道感を盛り上げる。
旧県道のこの区間は、狭い上に路肩が崩れやすく、危険だったらしい。現在は危険な区間をカットし、安全な新県道に作り替えられている。これから行くところは、危険な為、削除された区間だ。
元県道だけあって当然アスファルトだ。ただ、すべての道は生きているので、変化し続けるし、手入れされなければ朽ち果てる。ここも、路肩はかなり崩れている。これが県道だったとは・・
※この湾曲した枝のような、根のようなものが、ヘビみたいで、あせルンです。
どのくらい行けばよいのか、なぜこんな事をしてるのだろうか?いろいろな思いが浮かんでは消える。
この辺から不安は増大し、ピントもブレる。
山ビルや、ヘビはいないだろうか・・・たどり着けるだろうか・
枯れ木をくぐり、倒木や泥だまりを避けつつひたすら進む、
そしてついに・「あった!・・」
思わず近寄る・・塞がれた隧道・斜めに倒れ掛かる杉。全ては、初夏の鮮やかなグリーンに包まれる。
ついにたどり着いたのだ、幻想のランドクルーザー。
何という美しさ、人類消滅後の地球にいるような静寂・・・
有機物である植物と、無機物である廃車のコントラストが、寂寥感を掻き立てる。
ずっと見たかった。ついに本物を見ることができた。
満足感と、安堵感と共に来た道を戻る。
路面は泥が多く滑り易い。路肩は崩れている。下は崖状になっている。注意されたし。
誰も車に触れないで欲しい。絶対ガラスを割らないで!。
見せて頂くというスタンスで、感謝と共に、何もせず、そっと様子を見てくれることを望む。
また、夜は危険すぎる。
工事が始まった昭和20年代は、隧道掘削の際、落盤事故も多かったのだろう。隧道工事の際の慰霊碑がある。言わんとしていることは、お分かりいただけるだろうか。
ちなみに廃隧道の向こう側へは、反対側の入り口から行けるらしい。
また、今回は5月末だったので全然いなかったが、6月からは山ビルがウヨウヨ出て来るらしい。上総・安房方面は多いのだ。
※今回の記事は、この廃道探索を勧めるものではありません。ご了承ください。
さあ次の場所へ行こう。百数十年のタイムスリップ建築物に会いに・(今度は安心な観光地です)。今日はそのために早く出てきたのだ。更に千葉県を南下するのだ。続きは近日公開!。
ではまた・。
廃道を歩くにはこれがいい!ベストセラー1位。デザインも良い!!
ザックは良いものを選ぼう!
過去にその写真を見た時、車の不法投棄は決して許されるものではないが、あまりの幻想的な美しさに、うっとりしてしまった。
廃道となった旧県道、その先にあるのだ。勇気を出して行ってみよう。行けなかったら戻ればいい。
天気は最高。冒険するのに最高の相棒、DF125Eで、爽快に千葉県を南下する。冒険すると、生きてる実感が得られる。
到着した・。
林道のようにゲートがある、横から入れるようだ。徒歩で行くしかない。何キロ歩くのだろう。
同好の士がいればいいのだが・・誰とも会わず・不安はつのる。ガードレール右は法面、15メートルくらいか。下は現在の県道。
ガードレールが廃道感を盛り上げる。
旧県道のこの区間は、狭い上に路肩が崩れやすく、危険だったらしい。現在は危険な区間をカットし、安全な新県道に作り替えられている。これから行くところは、危険な為、削除された区間だ。
元県道だけあって当然アスファルトだ。ただ、すべての道は生きているので、変化し続けるし、手入れされなければ朽ち果てる。ここも、路肩はかなり崩れている。これが県道だったとは・・
※この湾曲した枝のような、根のようなものが、ヘビみたいで、あせルンです。
どのくらい行けばよいのか、なぜこんな事をしてるのだろうか?いろいろな思いが浮かんでは消える。
この辺から不安は増大し、ピントもブレる。
山ビルや、ヘビはいないだろうか・・・たどり着けるだろうか・
枯れ木をくぐり、倒木や泥だまりを避けつつひたすら進む、
そしてついに・「あった!・・」
思わず近寄る・・塞がれた隧道・斜めに倒れ掛かる杉。全ては、初夏の鮮やかなグリーンに包まれる。
ついにたどり着いたのだ、幻想のランドクルーザー。
何という美しさ、人類消滅後の地球にいるような静寂・・・
有機物である植物と、無機物である廃車のコントラストが、寂寥感を掻き立てる。
ずっと見たかった。ついに本物を見ることができた。
満足感と、安堵感と共に来た道を戻る。
路面は泥が多く滑り易い。路肩は崩れている。下は崖状になっている。注意されたし。
誰も車に触れないで欲しい。絶対ガラスを割らないで!。
見せて頂くというスタンスで、感謝と共に、何もせず、そっと様子を見てくれることを望む。
また、夜は危険すぎる。
工事が始まった昭和20年代は、隧道掘削の際、落盤事故も多かったのだろう。隧道工事の際の慰霊碑がある。言わんとしていることは、お分かりいただけるだろうか。
ちなみに廃隧道の向こう側へは、反対側の入り口から行けるらしい。
また、今回は5月末だったので全然いなかったが、6月からは山ビルがウヨウヨ出て来るらしい。上総・安房方面は多いのだ。
※今回の記事は、この廃道探索を勧めるものではありません。ご了承ください。
さあ次の場所へ行こう。百数十年のタイムスリップ建築物に会いに・(今度は安心な観光地です)。今日はそのために早く出てきたのだ。更に千葉県を南下するのだ。続きは近日公開!。
ではまた・。
ホットウィール(Hot Wheels) ベーシックカー トヨタ ランドクルーザー 80 【3才~】 HHF01
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スタイルRV Vol.158 トヨタ ランドクルーザー・プラド&ハイラックス
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廃道を歩くにはこれがいい!ベストセラー1位。デザインも良い!!
ザックは良いものを選ぼう!
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[ミレー] リュック サース フェー 30+5 LD(SAAS FEE) SAPHIR
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[ミレー] リュック サース フェー 30+5(SAAS FEE) SAPHIR-M
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愛の手掘り隧道 完結編 [廃墟・廃校・古道・隧道]
茂原の長谷トンネル・前回の写真は出口だけで、全貌がわかりにくかったので、再取材がてら、写真撮ってきた。皆様にご覧いただきたい。誰も興味を持たない隧道。でも、私にとっては可愛い隧道。
今回は、「愛の手掘り隧道・完結編」となる。
入り口は、とにかく鬱蒼としていて怖い。100%誰も通らない。何かあったら自力で逃げるしかない。
正直なところ、ヘビや猪が怖い。この辺りは、山ビルは多分大丈夫だろう。
入り口から見上げると、隧道開通以前、子供たちが越えて通学していた山が見える。多分、あの木の間を下りてきたのだろう。
険しすぎる!
さあ!隧道に突入しよう!!
全長38メートル・左に湾曲している。プロの仕事ではないので、直線ではないし、入り口の形もいびつだったりするが、そこにまた味があるのだ。
写真で見ると分かるが、壁面も比較的乾燥していて、コケやカビもなく、虫や、コウモリもいないし、結構きれいだ。意外に爽やかな風が漂う。
ただ、もう、通学の子供たちの歓声が響くことはない・誰も通らない・・。
無事に抜けたので今度は逆から見てみよう!
入り口に戻った。空を見上げた。
運よく和尚に合えたので(草刈りをしていた)、また質問すると喜んで答えてくれた。
一番聞きたかったのは、今年購入した茂原市の小冊子「茂原風土記シリーズ17・トンネルのはなし」(300円・平成10年発行※24年前)によると、隧道の完成は明治15年となっているが、和尚は、「昭和20年頃だ」と断言していることだ。
とても良い方なのだが、話が脱線し、突然武田信玄の話題になったり、耳が遠いらしく、聞き間違えもあったり。私の質問以外の話題になるのを、根気強く軌道修正しながら、取材した。
※和尚の推定年齢は70代後半~80歳。
今回の証言
1・うちの寺は、田も広範囲にもっていて、毎年何俵ほどの年貢をいただいて、暮らしは良かった。しかし農地解放で収入は激減。慎ましい暮らしになった。現在は檀家も少なく暮らしは厳しい。
※現在は寺の補修もままならないようで、基礎の木材が腐食して傾いているのを、車のパンタジャッキで支えているのを見ました。
2・この寺の側道は私有地だった。農地解放で昭和22年頃町道になった。私道に隧道を掘り通学路にすることは考えにくい。故に昭和22年以降の完成だ。25年頃完成し30年に閉校すると、トンネルは使われなくなった。約5年しか使われなかった。
3・薫風小学校は、最初は神社系の、小さな寺子屋のような施設だった。小学校になったのは昭和に入ってから。だからそれまではトンネルは必要ない。
4・トンネル入り口、左上部の高台に庵があって、お坊さんが住んでいた。しかし明治の、通称「神仏分離令」を発端とする、廃仏毀釈運動によって、放火された(ええっ?!)。
*この話をした時、和尚の顔は曇った。
※日本中で多くの寺が被害に遭われたそうです。力のあるお寺、地域に根付いたお寺は、大丈夫だったらしいです。和尚の話によると、日本中の寺の、1割くらい焼かれたのではとの事。
お寺も大変だったのだ。
貴重な話が聞けたのだが、実は、和尚はトンネル掘削に立ち会っていないのだ。途中からこの寺を任されたそうなのだ(年度不明)。だから、それ以前の情報は、伝え聞いた話だという。事細かに矛盾を追求したいのだが、耳が遠く、話が脱線するのですごく時間がかかる。上の4つの情報も、聞き出すのに1時間くらいかかって、こちらのライフもめちゃくちゃ減るのだ。
※同時通訳の人が、20分が限界っていうでしょう?あんな感じ。
結局、茂原市の教育委員会に電話で確認。しかし、100年以上昔の事なので、資料がなく、小冊子に書かれた「明治15年に掘られた」という一文は、過去に、生存者にインタビューした可能性もあるが、確認のしようがなく、わからないとの事。今後新たなことがわかれば、連絡をくれるとの事。とても丁寧に対応して下さった。忙しい市役所の方には、申し訳なかった。
世紀の大工事なら資料もあるだろうが‥。
明治に掘られたか、昭和に掘られたか、真相は歴史ロマンの中・といった所だろうか・・・
間違いない事は、この隧道は、小学生が安全に通学できるように、優しい村人たちによって掘られた、「愛の手掘り隧道」であることだ。
今回、明治~昭和前期・必死で生きた普通の人々の暮らしに触れたようで、嬉しい。現代に生きる自分の人生は緩くて平和で幸せだ。先達の方々のお陰で今がある。
愛の手掘り隧道・は、とりあえず完結としたい。機会があれば、別の手掘り隧道へ行ってみたい。
しかし、お寺の屋根を見上げると新たな疑問が・・
なんでハート2つなの?
※和尚によると・・寺院の窓に釣り鐘のような形があるでしょう?あれと同じで、寺院建築デザインの一つ・だそうです(和尚個人の見解です)。
いや、歴史に触れると、更に謎が増えるんだな・・・
和尚に、お礼にと、スーパーで買っておいた団子をあげた。
とても喜んで、傾けて団子が寄らないように水平に持ちながら、お礼に、更に話をしてくれようとした。こんなに喜んでもらえるとは思わなかった。お会いできてよかった。
和尚さん・ありがとう。お元気で。
皆様の近所にも必ず、歴史を感じさせる遺跡があると思う。こんなご時世は特に、近所大冒険してはいかがだろうか。無名の方々が精一杯生きた証・それを取材で深く掘り下げる。とても楽しい思い出になると思う。本やネットに無い情報が手に入るととても嬉しいものだ。
取材を受ける年配の方々も、自分の幼い頃の事に興味を持ってもらえて、嬉しいと思う。
今回もお疲れDF.またいつか行こう!そろそろ雨が降りそうだ。
※この隧道、そっと覗きに行けば、子供を大切にしていた村人の思いを、感じられるかもしれません。
ではまた。
レトロ気分で、こんなステッカーはどう?
今回は、「愛の手掘り隧道・完結編」となる。
入り口は、とにかく鬱蒼としていて怖い。100%誰も通らない。何かあったら自力で逃げるしかない。
正直なところ、ヘビや猪が怖い。この辺りは、山ビルは多分大丈夫だろう。
入り口から見上げると、隧道開通以前、子供たちが越えて通学していた山が見える。多分、あの木の間を下りてきたのだろう。
険しすぎる!
さあ!隧道に突入しよう!!
全長38メートル・左に湾曲している。プロの仕事ではないので、直線ではないし、入り口の形もいびつだったりするが、そこにまた味があるのだ。
写真で見ると分かるが、壁面も比較的乾燥していて、コケやカビもなく、虫や、コウモリもいないし、結構きれいだ。意外に爽やかな風が漂う。
ただ、もう、通学の子供たちの歓声が響くことはない・誰も通らない・・。
無事に抜けたので今度は逆から見てみよう!
入り口に戻った。空を見上げた。
運よく和尚に合えたので(草刈りをしていた)、また質問すると喜んで答えてくれた。
一番聞きたかったのは、今年購入した茂原市の小冊子「茂原風土記シリーズ17・トンネルのはなし」(300円・平成10年発行※24年前)によると、隧道の完成は明治15年となっているが、和尚は、「昭和20年頃だ」と断言していることだ。
とても良い方なのだが、話が脱線し、突然武田信玄の話題になったり、耳が遠いらしく、聞き間違えもあったり。私の質問以外の話題になるのを、根気強く軌道修正しながら、取材した。
※和尚の推定年齢は70代後半~80歳。
今回の証言
1・うちの寺は、田も広範囲にもっていて、毎年何俵ほどの年貢をいただいて、暮らしは良かった。しかし農地解放で収入は激減。慎ましい暮らしになった。現在は檀家も少なく暮らしは厳しい。
※現在は寺の補修もままならないようで、基礎の木材が腐食して傾いているのを、車のパンタジャッキで支えているのを見ました。
2・この寺の側道は私有地だった。農地解放で昭和22年頃町道になった。私道に隧道を掘り通学路にすることは考えにくい。故に昭和22年以降の完成だ。25年頃完成し30年に閉校すると、トンネルは使われなくなった。約5年しか使われなかった。
3・薫風小学校は、最初は神社系の、小さな寺子屋のような施設だった。小学校になったのは昭和に入ってから。だからそれまではトンネルは必要ない。
4・トンネル入り口、左上部の高台に庵があって、お坊さんが住んでいた。しかし明治の、通称「神仏分離令」を発端とする、廃仏毀釈運動によって、放火された(ええっ?!)。
*この話をした時、和尚の顔は曇った。
※日本中で多くの寺が被害に遭われたそうです。力のあるお寺、地域に根付いたお寺は、大丈夫だったらしいです。和尚の話によると、日本中の寺の、1割くらい焼かれたのではとの事。
お寺も大変だったのだ。
貴重な話が聞けたのだが、実は、和尚はトンネル掘削に立ち会っていないのだ。途中からこの寺を任されたそうなのだ(年度不明)。だから、それ以前の情報は、伝え聞いた話だという。事細かに矛盾を追求したいのだが、耳が遠く、話が脱線するのですごく時間がかかる。上の4つの情報も、聞き出すのに1時間くらいかかって、こちらのライフもめちゃくちゃ減るのだ。
※同時通訳の人が、20分が限界っていうでしょう?あんな感じ。
結局、茂原市の教育委員会に電話で確認。しかし、100年以上昔の事なので、資料がなく、小冊子に書かれた「明治15年に掘られた」という一文は、過去に、生存者にインタビューした可能性もあるが、確認のしようがなく、わからないとの事。今後新たなことがわかれば、連絡をくれるとの事。とても丁寧に対応して下さった。忙しい市役所の方には、申し訳なかった。
世紀の大工事なら資料もあるだろうが‥。
明治に掘られたか、昭和に掘られたか、真相は歴史ロマンの中・といった所だろうか・・・
間違いない事は、この隧道は、小学生が安全に通学できるように、優しい村人たちによって掘られた、「愛の手掘り隧道」であることだ。
今回、明治~昭和前期・必死で生きた普通の人々の暮らしに触れたようで、嬉しい。現代に生きる自分の人生は緩くて平和で幸せだ。先達の方々のお陰で今がある。
愛の手掘り隧道・は、とりあえず完結としたい。機会があれば、別の手掘り隧道へ行ってみたい。
しかし、お寺の屋根を見上げると新たな疑問が・・
なんでハート2つなの?
※和尚によると・・寺院の窓に釣り鐘のような形があるでしょう?あれと同じで、寺院建築デザインの一つ・だそうです(和尚個人の見解です)。
いや、歴史に触れると、更に謎が増えるんだな・・・
和尚に、お礼にと、スーパーで買っておいた団子をあげた。
とても喜んで、傾けて団子が寄らないように水平に持ちながら、お礼に、更に話をしてくれようとした。こんなに喜んでもらえるとは思わなかった。お会いできてよかった。
和尚さん・ありがとう。お元気で。
皆様の近所にも必ず、歴史を感じさせる遺跡があると思う。こんなご時世は特に、近所大冒険してはいかがだろうか。無名の方々が精一杯生きた証・それを取材で深く掘り下げる。とても楽しい思い出になると思う。本やネットに無い情報が手に入るととても嬉しいものだ。
取材を受ける年配の方々も、自分の幼い頃の事に興味を持ってもらえて、嬉しいと思う。
今回もお疲れDF.またいつか行こう!そろそろ雨が降りそうだ。
※この隧道、そっと覗きに行けば、子供を大切にしていた村人の思いを、感じられるかもしれません。
ではまた。
消えた街道・鉄道を歩く地図の旅 (講談社プラスアルファ新書)
- 作者: 堀 淳一
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2022/05/30
- メディア: 新書
レトロ気分で、こんなステッカーはどう?
幻の大多喜ダム [廃墟・廃校・古道・隧道]
※過去記事 セーラームーンドール!勢揃い!?
https://sekainiheiwatoomotya.blog.ss-blog.jp/2022-01-06-2?1654491676
の、写真を大きくしました。興味のある方は再度ご覧ください。
※今回のブログ記事は、この廃道探索を勧めるものではありません。ご了承ください。
記事はここから
千葉の有名な廃道シリーズ。
建設途中で工事が中止になってしまった、大多喜ダムだ。もう、永遠に完成する事はないのだろうか。
将来的には、完全な立ち入り禁止になる可能性もあるので、今のうちに見ておきたい。
5月の爽やかな風に誘われて、行ってきた。廃道を気持ちよく走ってみよう。
建設は県営で、平成3年に着工。しかし水の需要が減り、平成23年建設中止。
何か観光の目玉に使えそうな気もするが、お金がかかるので難しいだろう。自由に散策してもらうにしても危険だし、そっとしておくしかないのだろう。
まずは小滝橋~沢山橋を見ていこう。
4つの橋が名物だ。
小滝橋。 道は行き止まりだ。
振り返る。アスファルトに草が忍び寄る。廃道の醍醐味・世紀末感。
沢山橋・建設途中のままだ。
本当はこのまま、向こうへ行けるはずだったのだ・・
下をのぞくと足がすくむ
来た道を振り返る。
来た道を戻り、反対側の柳堀橋を目指す。
重機が一台、砂利を掘っていた。入り口の公道が工事中の為、使用する砂利を移動しているのかも知れない。
到着・柳堀橋・ここからのカーブが美しい。
その先に行くとラスボス ・ 獅子ヶ口橋・名前もラスボスにふさわしい。
表面はサビているが大丈夫。
遠い山々が美しい。抜けるように青い空。
振り返ると。綺麗なコーナーが・ここは今貸し切りなのだ。この贅沢感がくせになる。
コンパクトな道路幅も、管理用道路感があって良い雰囲気。
進むと道は途切れるが、右に行けそうだ
砂利道に変わる
今通ってきた柳堀橋が見える・
やがて、元来た道へ戻れる・・
ぐるりと一周というわけでなくU字型に走る感じ。楽しかった。何と言っても道が荒れていない。
藪漕ぎをしなくて良いので、山ビルの心配もない。
一番良かったのは、やはり竜ヶ口橋。遠い山々が見えて、眺めが良いし、橋自体も迫力がある。
旅の終わりは大多喜で和菓子。
麩饅頭。さらっとした甘み・笹の香り。和菓子は四季や雰囲気を味わえる物。少量でよい。
ではまた。
冒険するなら原2だね。
試し読みしてみよう。
面白そう!まずは試し読み。
旧車買う予定の人。これ、持っておくといいかも。
https://sekainiheiwatoomotya.blog.ss-blog.jp/2022-01-06-2?1654491676
の、写真を大きくしました。興味のある方は再度ご覧ください。
※今回のブログ記事は、この廃道探索を勧めるものではありません。ご了承ください。
記事はここから
千葉の有名な廃道シリーズ。
建設途中で工事が中止になってしまった、大多喜ダムだ。もう、永遠に完成する事はないのだろうか。
将来的には、完全な立ち入り禁止になる可能性もあるので、今のうちに見ておきたい。
5月の爽やかな風に誘われて、行ってきた。廃道を気持ちよく走ってみよう。
建設は県営で、平成3年に着工。しかし水の需要が減り、平成23年建設中止。
何か観光の目玉に使えそうな気もするが、お金がかかるので難しいだろう。自由に散策してもらうにしても危険だし、そっとしておくしかないのだろう。
まずは小滝橋~沢山橋を見ていこう。
4つの橋が名物だ。
小滝橋。 道は行き止まりだ。
振り返る。アスファルトに草が忍び寄る。廃道の醍醐味・世紀末感。
沢山橋・建設途中のままだ。
本当はこのまま、向こうへ行けるはずだったのだ・・
下をのぞくと足がすくむ
来た道を振り返る。
来た道を戻り、反対側の柳堀橋を目指す。
重機が一台、砂利を掘っていた。入り口の公道が工事中の為、使用する砂利を移動しているのかも知れない。
到着・柳堀橋・ここからのカーブが美しい。
その先に行くとラスボス ・ 獅子ヶ口橋・名前もラスボスにふさわしい。
表面はサビているが大丈夫。
遠い山々が美しい。抜けるように青い空。
振り返ると。綺麗なコーナーが・ここは今貸し切りなのだ。この贅沢感がくせになる。
コンパクトな道路幅も、管理用道路感があって良い雰囲気。
進むと道は途切れるが、右に行けそうだ
砂利道に変わる
今通ってきた柳堀橋が見える・
やがて、元来た道へ戻れる・・
ぐるりと一周というわけでなくU字型に走る感じ。楽しかった。何と言っても道が荒れていない。
藪漕ぎをしなくて良いので、山ビルの心配もない。
一番良かったのは、やはり竜ヶ口橋。遠い山々が見えて、眺めが良いし、橋自体も迫力がある。
旅の終わりは大多喜で和菓子。
麩饅頭。さらっとした甘み・笹の香り。和菓子は四季や雰囲気を味わえる物。少量でよい。
ではまた。
冒険するなら原2だね。
試し読みしてみよう。
面白そう!まずは試し読み。
旧車買う予定の人。これ、持っておくといいかも。
GWツーリング2022~謎の隧道へ [廃墟・廃校・古道・隧道]
※過去記事・「リン・ミンメイの人形」後半の写真を大きくしました。より解り易いと思います。興味のある方は覗いてみてください。今も人気のある記事です(なぜか、その日の閲覧数1位の時もあります)。https://sekainiheiwatoomotya.blog.ss-blog.jp/2013-04-03
GWに、友人たちとツーリングに行った。※今回、バイクの写真はありません。
まず、九十九里海の駅でランチ。
私はコレ。
波乗り道路を走り、海で記念写真を撮った後、
睦沢のカフェをその場で予約し「里山カフェ&ゲストハウス sou」 14時着。
※私は一人でも行ってしまうくらいカフェ好きだが、他の2人は、普段絶対行かない、苦手のようだ。こういう時はそれぞれが、得意分野でツーリングを楽しくするのが良い。実際2人とも楽しそうだった。
私の友人・2人の得意分野とは、
I君は、ツーリング企画が得意。皆を明るく誘って流れを作る。彼がいないと集まれない。ありがとう。
s君はリーダーシップがあるので、絶対的な安心感がある。心が一つになる(これホント)。
私は交通量の少ない爽快な山道や、お店に案内する。移動だけでない旅を作る(県内限定)。
さて、カフェの雰囲気は・・・・
めっちゃいい!!くつろぐ家族連れ、遊ぶ子供たち、山里のロケーション 感じのいいオーナー。
手前が私
上着を脱いでリラックス。足に根が生えそうにリラックス。ウッドデッキが最高。
本当は泊まりたいくらい気に入ったが、仕方なく帰る。
次に睦沢歴史民俗資料館近くの、諏訪神社に、隧道を見に行く。瞳に見えるらしい。
急な階段を上ると・・
なるほどこれか・詳細は分からないらしい・・。
親切な家族連れが写真を撮ってくれた(向こうから声をかけてくれた)。
樹齢千年の楠の前で、友情の記念写真。このメンツだとありのままの自分でよいので、楽しい。
。
この後は睦沢の道の駅により、ヨーグルトを食べ、家路についた。風が爽やかで最高だった。
また行きたい。
ではまた!
これカッコイイ!57~60㎝のフリーサイズ(毎回言っとるが、きっとワシにはキツイ( ;∀;))
頭囲57~58cmの女性用フリーサイズ、メッチャおしゃれ!
迷える子羊のあなたにおすすめ
kindleです(自分は紙の本が好きだけど)。失踪日記は、大変な時や迷える時に読みます。
GWに、友人たちとツーリングに行った。※今回、バイクの写真はありません。
まず、九十九里海の駅でランチ。
私はコレ。
波乗り道路を走り、海で記念写真を撮った後、
睦沢のカフェをその場で予約し「里山カフェ&ゲストハウス sou」 14時着。
※私は一人でも行ってしまうくらいカフェ好きだが、他の2人は、普段絶対行かない、苦手のようだ。こういう時はそれぞれが、得意分野でツーリングを楽しくするのが良い。実際2人とも楽しそうだった。
私の友人・2人の得意分野とは、
I君は、ツーリング企画が得意。皆を明るく誘って流れを作る。彼がいないと集まれない。ありがとう。
s君はリーダーシップがあるので、絶対的な安心感がある。心が一つになる(これホント)。
私は交通量の少ない爽快な山道や、お店に案内する。移動だけでない旅を作る(県内限定)。
さて、カフェの雰囲気は・・・・
めっちゃいい!!くつろぐ家族連れ、遊ぶ子供たち、山里のロケーション 感じのいいオーナー。
手前が私
上着を脱いでリラックス。足に根が生えそうにリラックス。ウッドデッキが最高。
本当は泊まりたいくらい気に入ったが、仕方なく帰る。
次に睦沢歴史民俗資料館近くの、諏訪神社に、隧道を見に行く。瞳に見えるらしい。
急な階段を上ると・・
なるほどこれか・詳細は分からないらしい・・。
親切な家族連れが写真を撮ってくれた(向こうから声をかけてくれた)。
樹齢千年の楠の前で、友情の記念写真。このメンツだとありのままの自分でよいので、楽しい。
。
この後は睦沢の道の駅により、ヨーグルトを食べ、家路についた。風が爽やかで最高だった。
また行きたい。
ではまた!
これカッコイイ!57~60㎝のフリーサイズ(毎回言っとるが、きっとワシにはキツイ( ;∀;))
頭囲57~58cmの女性用フリーサイズ、メッチャおしゃれ!
迷える子羊のあなたにおすすめ
kindleです(自分は紙の本が好きだけど)。失踪日記は、大変な時や迷える時に読みます。
愛の手掘り隧道 [廃墟・廃校・古道・隧道]
急にDFの記事にアクセスが増えてきた。感謝!。ここで原2オフミーティングを企画すれば、皆来てくれるだろうか!?
さて、前回予告した通り、茂原市の「愛の手掘り隧道」の記事だ!
※写真を大きく表示する方法がわかったので、今回から、時折大きくしてみます。
数年前に行ったのだが、今回4月末に再取材をした。
入り口は茂原市の、長照寺の横。そこから、すぐ先の妙照寺までを結ぶ道の途中に、隧道「長谷トンネル」はある。
見えにくいが、左奥にDFを停めてある。この道は、一応町道らしい。ここからは徒歩で行く。
付近に、話を伺える住民が見当たらないので、一人で隧道に突入。
まだ隧道あるぞ!! オラ、ワックワクするぞ!
鬱蒼としていて怖い。ここ、日本ですか?インドネシアじゃないの?
左にはお墓がある。写真左上に6本くらい大きな木が生えているが、昔は山を越えて、その木の間を小学生が通ってこちらに通っていた(危なっ!)らしい。
そんでもって「危険だから、隧道を掘ってあげようじゃないか!かわいい子供達のために!!」となったらしい。
参考画像 本物のインドネシアのジャングル↓ 似てるな(笑)
さあ突入だ!!
うおおおおお!
隧道の長さは、38メートルとのこと。壁面はツヤツヤで綺麗。今でも十分、隧道としての機能は保たれている。使われていないのがもったいない!
小さい画像でもう一度↓
隧道の中は綺麗で、歩きやすいためすぐ通り抜けられるが、問題はその先。
うわっ!やだな!前と同じ藪だよ!(心なしか前回よりは楽だ・多分、藪に慣れたから)。
実際は、もっとじめじめしていて、足場は悪く、嫌な生き物がいないかビビりながら歩く。
樹をバキバキ踏み荒らしながら、恐竜が出てきそう・
道は、ほぼ無い。でも行く。楽しいから。冒険魂に火が付く。生きてる実感がある。
藪漕ぎが終わると直立した竹が行く手を阻む。
やった!通り抜けたぞ!
通り抜けるとまたお寺!名前も似ている妙照寺。山が集落を分けていたので、こんな近くにお寺が近接しているのだろう。
そこで、農家の年配男性に聞いた。
「ちょっとそこのトンネルについてお聞きしたいんですけど」
「ああそこはもう通れないよ」 「あ、今そこ通ってきたんです」
「なんでそんなこと聞くの」・ヤバい!不審者と疑っている!
「いや。旅の者なんです(古い表現やな)。こういう所が好きで廻ってるんです。」
「あ50年くらい前ね、薫風小学校ってのが山の向こうにあって、そこに通うために掘ったんだよ」
「でもこんな立派なトンネル掘るのは、相当大変でしょうね。」
「わかんねえ、昔の人が掘ったから」(その当時は、おそらくこの方はまだ子供・つか通ってた本人じゃね?)
なんか忙しそうなのでお礼を言って、また来た道を軽く藪漕ぎしながら、帰る。
もう漕ぎ慣れたは(笑)。
向こう側で、DFはじっと待っている。
ここで新聞の集金が来て、お寺の住職が出てきた。チャンスだ!!取材だ!!!
前回もそうだったが、この住職はとても優しく親切な方。そして話し好き!隧道と関係ない話も折り交ぜ、延々と30分くらい・・す・睡魔が…zzzzz~・その中から得た情報は・・
1・この隧道ができる前は、あの山を越えて子供が通っていた。
2・危険なので向こうとこっちの集落の人が協力してトンネルを掘った。(茂原市の資料によると、明治15年完成)※これについては、住職の話と食い違い、少し疑問が残るので、記事最後を参照下さい。
3・一応町道だ。
4・20人くらいで掘った。(後日検索で全長38メートルと判明)。一日に2メートルくらい掘れるので、大体20日で完成(そんなに簡単に出来んの????!!!)。
5・せっかくトンネル掘ったが、昭和30年に廃校になってしまった為、そこから使われなくなった。
6・薫風小学校はこの向こうに、跡地があって石碑がある。(明治15年創立~昭和30年閉校)
7・ここには狸が7匹も来た。「まるで証城寺ですね」「え、アッハッハッハ!それでな・」住職ヒートアップ(まずい、日が暮れてしまう。もうすぐ17時だ)「じゃそろそろ、石碑を見に行ってみます」
住職はもっと話したそうだったが、お礼を言って石碑に向かう!
最後に住職がこういった・・・・・・・
「なんか若い人かと思ったら、結構歳いってそうだね、アハハ」
(ほっとけ!!笑)
くそっ、マスク効果あまりなかったか。なんのこっちゃ(笑)。結構どこに行っても「お兄ちゃん」て呼ばれるのに・・・。ま、いいわ。(-_-メ)。
お寺の猫ちゃんにもバイバイ。「かわヨ」と書きたいが、野良系らしく、正反対の鋭い雰囲気。
長照寺を背に振り返るとこの景色。
この道を向こうに行けば石碑があるらしい。田の水をかすかに揺らしながら、4月の爽やかな風が吹いている。私の大好きな風。
石碑はどこだ・・・
少し迷ったが、あった!!
ついに来たぞ。・・・近寄ってみる・
当時は、広いグラウンドがあったかもしれないが、道路や住宅に分断されて、何もわからない。
この辺りは茂原から、藻原寺を経て長南町まで人車軌道があった場所だ。おそらくこの田のどこかを走っていたと思う。小学校の生徒も見ていたはずだ。明治42年~大正15年まで。また人車ってのがたまらないのだ。茂原市郷土資料館に実物が現存する。奇跡だ。本当にありがたい。
これよ↓
こんな風に押す。コレはきついだろう。しかし、どんだけスタミナあんねん!
押しているのは、窓なしの天蓋付き車両だ。奥の駅舎?には窓ありの普通車両がある。窓なし天蓋車は、暑い日専用なのではないだろうか?どうせならこれに乗りたい。
まるでテーマパークのよう・なんてお洒落で可愛いのだろう。押し歩きの人車にも、当時最先端のデザインを与えたのかも知れない。
側面には千葉県のマークが。押夫は公務員かと思っていたが、茂原市の学芸員によると、民間に委託されていたそう。一日2往復を二人ががりで押す。坂道では、客も降りて押すこともあったとか(!!?)。
これはやがて、昭和5年開業の南総鉄道へと変わるのだ。しかもその遺構は、今もいくつか残っている。その話はまたいつか。
そのころ上野~新橋間では
財力ありすぎ!(政府がやってるから)。
最後に遠くから跡地を見る。
一番中央寄りの電柱の前が、石碑の場所。当時の子供たちも見たであろう夕景。ああ・百数十年の時の狭間にいる自分・この、何とも言いようのない気持ち。
タイムスリップと楽しい取材。ネットに無い情報もゴロゴロ出てきて、勉強になった。何といっても手掘り隧道が、20日くらいで出来る事が知れて良かった。掘るのは大変だが、工期も比較的短時間で済み、隧道に適した土質の多い千葉の山だからこそ、あちこちにあるのだ。
自粛中にぴったりの、古道・隧道巡りはここまで。今日も楽しかった。
正直なところ、隧道マニアの方は沢山いらっしゃる。ブログでも詳細に解説している。写真も綺麗で解り易い。
しかし、自分で現地の方々に取材すると、どこにもない情報が手に入ることもあるのだ。(体験に敵うものはないっていうでしょう?)。だから行くのだ(レインボーマンではない)。
できれば廃道・廃線巡りサークルに入りたいものだ。
※気になったこと・・住職は、「みんなでトンネルを掘ったのに、10年くらいで廃校になってしまったので‥」のようなことを話していた。茂原市の資料では、明治15年に掘られたとなっているが、実際は、もっと後に掘られたのではないのか?例えば、最初は山越えで通学していたが、戦後(昭和20年頃)に掘られたとか・・。だとすると、和尚の証言と辻褄が合う。謎多き歴史ロマンに終わりはないのだ。この件については、今後新情報があればお伝えしたい。
ではまた。
興味のある方は、試し読みを↓
ここからDF用品
DFに合うバッテリーはコレ↓(以下3種)
私がいつも買うのはコレ↓(2年ごとに交換)
ちょっと奮発するなら国内メーカーのこれ↓(製造はタイ?らしい)
DFのマーブルアステカオレンジ・タッチペン(売ってるんだ・・)
さて、前回予告した通り、茂原市の「愛の手掘り隧道」の記事だ!
※写真を大きく表示する方法がわかったので、今回から、時折大きくしてみます。
数年前に行ったのだが、今回4月末に再取材をした。
入り口は茂原市の、長照寺の横。そこから、すぐ先の妙照寺までを結ぶ道の途中に、隧道「長谷トンネル」はある。
見えにくいが、左奥にDFを停めてある。この道は、一応町道らしい。ここからは徒歩で行く。
付近に、話を伺える住民が見当たらないので、一人で隧道に突入。
まだ隧道あるぞ!! オラ、ワックワクするぞ!
鬱蒼としていて怖い。ここ、日本ですか?インドネシアじゃないの?
左にはお墓がある。写真左上に6本くらい大きな木が生えているが、昔は山を越えて、その木の間を小学生が通ってこちらに通っていた(危なっ!)らしい。
そんでもって「危険だから、隧道を掘ってあげようじゃないか!かわいい子供達のために!!」となったらしい。
参考画像 本物のインドネシアのジャングル↓ 似てるな(笑)
さあ突入だ!!
うおおおおお!
隧道の長さは、38メートルとのこと。壁面はツヤツヤで綺麗。今でも十分、隧道としての機能は保たれている。使われていないのがもったいない!
小さい画像でもう一度↓
隧道の中は綺麗で、歩きやすいためすぐ通り抜けられるが、問題はその先。
うわっ!やだな!前と同じ藪だよ!(心なしか前回よりは楽だ・多分、藪に慣れたから)。
実際は、もっとじめじめしていて、足場は悪く、嫌な生き物がいないかビビりながら歩く。
樹をバキバキ踏み荒らしながら、恐竜が出てきそう・
道は、ほぼ無い。でも行く。楽しいから。冒険魂に火が付く。生きてる実感がある。
藪漕ぎが終わると直立した竹が行く手を阻む。
やった!通り抜けたぞ!
通り抜けるとまたお寺!名前も似ている妙照寺。山が集落を分けていたので、こんな近くにお寺が近接しているのだろう。
そこで、農家の年配男性に聞いた。
「ちょっとそこのトンネルについてお聞きしたいんですけど」
「ああそこはもう通れないよ」 「あ、今そこ通ってきたんです」
「なんでそんなこと聞くの」・ヤバい!不審者と疑っている!
「いや。旅の者なんです(古い表現やな)。こういう所が好きで廻ってるんです。」
「あ50年くらい前ね、薫風小学校ってのが山の向こうにあって、そこに通うために掘ったんだよ」
「でもこんな立派なトンネル掘るのは、相当大変でしょうね。」
「わかんねえ、昔の人が掘ったから」(その当時は、おそらくこの方はまだ子供・つか通ってた本人じゃね?)
なんか忙しそうなのでお礼を言って、また来た道を軽く藪漕ぎしながら、帰る。
もう漕ぎ慣れたは(笑)。
向こう側で、DFはじっと待っている。
ここで新聞の集金が来て、お寺の住職が出てきた。チャンスだ!!取材だ!!!
前回もそうだったが、この住職はとても優しく親切な方。そして話し好き!隧道と関係ない話も折り交ぜ、延々と30分くらい・・す・睡魔が…zzzzz~・その中から得た情報は・・
1・この隧道ができる前は、あの山を越えて子供が通っていた。
2・危険なので向こうとこっちの集落の人が協力してトンネルを掘った。(茂原市の資料によると、明治15年完成)※これについては、住職の話と食い違い、少し疑問が残るので、記事最後を参照下さい。
3・一応町道だ。
4・20人くらいで掘った。(後日検索で全長38メートルと判明)。一日に2メートルくらい掘れるので、大体20日で完成(そんなに簡単に出来んの????!!!)。
5・せっかくトンネル掘ったが、昭和30年に廃校になってしまった為、そこから使われなくなった。
6・薫風小学校はこの向こうに、跡地があって石碑がある。(明治15年創立~昭和30年閉校)
7・ここには狸が7匹も来た。「まるで証城寺ですね」「え、アッハッハッハ!それでな・」住職ヒートアップ(まずい、日が暮れてしまう。もうすぐ17時だ)「じゃそろそろ、石碑を見に行ってみます」
住職はもっと話したそうだったが、お礼を言って石碑に向かう!
最後に住職がこういった・・・・・・・
「なんか若い人かと思ったら、結構歳いってそうだね、アハハ」
(ほっとけ!!笑)
くそっ、マスク効果あまりなかったか。なんのこっちゃ(笑)。結構どこに行っても「お兄ちゃん」て呼ばれるのに・・・。ま、いいわ。(-_-メ)。
お寺の猫ちゃんにもバイバイ。「かわヨ」と書きたいが、野良系らしく、正反対の鋭い雰囲気。
長照寺を背に振り返るとこの景色。
この道を向こうに行けば石碑があるらしい。田の水をかすかに揺らしながら、4月の爽やかな風が吹いている。私の大好きな風。
石碑はどこだ・・・
少し迷ったが、あった!!
ついに来たぞ。・・・近寄ってみる・
当時は、広いグラウンドがあったかもしれないが、道路や住宅に分断されて、何もわからない。
この辺りは茂原から、藻原寺を経て長南町まで人車軌道があった場所だ。おそらくこの田のどこかを走っていたと思う。小学校の生徒も見ていたはずだ。明治42年~大正15年まで。また人車ってのがたまらないのだ。茂原市郷土資料館に実物が現存する。奇跡だ。本当にありがたい。
これよ↓
こんな風に押す。コレはきついだろう。しかし、どんだけスタミナあんねん!
押しているのは、窓なしの天蓋付き車両だ。奥の駅舎?には窓ありの普通車両がある。窓なし天蓋車は、暑い日専用なのではないだろうか?どうせならこれに乗りたい。
まるでテーマパークのよう・なんてお洒落で可愛いのだろう。押し歩きの人車にも、当時最先端のデザインを与えたのかも知れない。
側面には千葉県のマークが。押夫は公務員かと思っていたが、茂原市の学芸員によると、民間に委託されていたそう。一日2往復を二人ががりで押す。坂道では、客も降りて押すこともあったとか(!!?)。
これはやがて、昭和5年開業の南総鉄道へと変わるのだ。しかもその遺構は、今もいくつか残っている。その話はまたいつか。
そのころ上野~新橋間では
財力ありすぎ!(政府がやってるから)。
最後に遠くから跡地を見る。
一番中央寄りの電柱の前が、石碑の場所。当時の子供たちも見たであろう夕景。ああ・百数十年の時の狭間にいる自分・この、何とも言いようのない気持ち。
タイムスリップと楽しい取材。ネットに無い情報もゴロゴロ出てきて、勉強になった。何といっても手掘り隧道が、20日くらいで出来る事が知れて良かった。掘るのは大変だが、工期も比較的短時間で済み、隧道に適した土質の多い千葉の山だからこそ、あちこちにあるのだ。
自粛中にぴったりの、古道・隧道巡りはここまで。今日も楽しかった。
正直なところ、隧道マニアの方は沢山いらっしゃる。ブログでも詳細に解説している。写真も綺麗で解り易い。
しかし、自分で現地の方々に取材すると、どこにもない情報が手に入ることもあるのだ。(体験に敵うものはないっていうでしょう?)。だから行くのだ(レインボーマンではない)。
できれば廃道・廃線巡りサークルに入りたいものだ。
※気になったこと・・住職は、「みんなでトンネルを掘ったのに、10年くらいで廃校になってしまったので‥」のようなことを話していた。茂原市の資料では、明治15年に掘られたとなっているが、実際は、もっと後に掘られたのではないのか?例えば、最初は山越えで通学していたが、戦後(昭和20年頃)に掘られたとか・・。だとすると、和尚の証言と辻褄が合う。謎多き歴史ロマンに終わりはないのだ。この件については、今後新情報があればお伝えしたい。
ではまた。
興味のある方は、試し読みを↓
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DFに合うバッテリーはコレ↓(以下3種)
私がいつも買うのはコレ↓(2年ごとに交換)
ちょっと奮発するなら国内メーカーのこれ↓(製造はタイ?らしい)
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DF125Eで古道めぐり [廃墟・廃校・古道・隧道]
DFで走るのは楽しい!急き立てられる加速や、それに伴う乗車姿勢の変動がほとんど無い。何となく、常に、副交感神経優位な感じで景色が流れていく。今日も千葉県巡りに出発だ。
千葉県に長柄横穴群という、古墳時代の横穴式墓が沢山ある場所がある。今日、観光客は、一人もいない。そこでぐるりと一回り歩く。鶯の声にうっとりしながら、山道を数分歩いた。
ツーリングでは、なるべく歩くようにしている。家でゴロゴロするよりはいいが、ツーリングなんて、全然ダイエットにならないからだ。むしろ、うまい物食べて太る。となると、歩くか、食べないかの、どちらか選択を迫られる。私は前者を選ぶ。※自転車の人・エライっ!
その後128号線を14号目指して走る。山間の集落が美しい。
ふと、集落に向け入らせて頂いた。運よく向こうの山を抜けられれば、それはそれで、嬉しい。
林道に突入!振り返るとこんな道↓ ※ここから、この後、帰りに地元の方に取材した談話を入れていきます。
(「昔は耕運機でも上がれた」・地元の方・談)
この先も行けるようなので、無謀にも前進!
しかし・倒木で引き返す。横は崖!!道幅1.8m位しかないので必死でUターン。足を取られ、ふかふかの落ち葉にDFを倒す!!損傷なし(良かった~)。
ふと見ると、千葉名物・手掘り隧道が・・・
入り口の石碑に、「稲荷参道開通記念」と書いてある。しかも昭和7年と彫られている!ふ、古いなー昔だなー、戦前やん。
こんなに立派な隧道を掘ってまで、行きたかったお稲荷様とはどんなとこだろう?行きたい!調べたい!
「オフ車の轍もあるし、くぐっておりたろ!」しかしこれが悲劇の始まりだった!
急な、泥&枯れ葉道を30メートルくらい降りる。
下は田んぼだったが、向こうの道には出られない。害獣除けの電線が張り巡らされている。
「アカン、もどろう」・しかし・・・・
泥と枯れ葉で途中でスリップ、しかも急坂なので、ずるずる滑り落ちて行く。
「ヤバい!」足を付けて半クラを当てるが轍を掘るだけ・「上から見えた轍はこれだったのか!」
しばらく悪戦苦闘で汗だく!「待てよ、先客のオフ車だって上がれたんだ。何か方法があるはず!・・・」
「そうだ!乗らずに押して、半クラを当てながら、同じ速度で自分もダッシュすればいい!!」
結果・何回かに分け、無事に登れた…「つ・疲れた…」
ホッとして向こう側にバイクを置き一枚パチリ・
ここまでしていきたい稲荷様とは、何処なのだ。
来た道を戻り、向こう側に出る道を探して隣の集落へ・。
すると・・
お稲荷様は荒れ果てたご様子。がけ崩れもひどかったらしく、地面も重機でならされている。
※お稲荷様の写真はこれだけです。
詳細は口コミ写真をご覧ください↓・地元民以外でここを探し当てたのは、自分だけかと思いましたが、すでに到達したツーリストさんがいらっしゃいました。写真もお上手です。何と出店の様子も!?
地元の方によると・。※( )内は私。・の後は心の声です。
「2年くらい前の台風あったろ・あれでやられたんだよ。」(・でももっと前から荒れてる雰囲気だが・・)
「それまでは、何とか参り(・子供の七五三的な?)も毎年やってたしお店も出てたよ。これから建て直すんだよ。基礎ができてたろ?」(・気づかんかった・土地は整地されていたが)。
「兄ちゃんも良かったら寄付してきなよ」
(え、ええ・ハハハ・愛想笑い)
(隣の神主さんの住居は廃屋になっていますが・・)
「あれは神主さんの家じゃねえんだよ、普通の家」(・普通の家!?)
「お稲荷さんは、個人のモノなんだよ」(・そんなことあるの?)
と、こんな感じで初老の男性2人に聞いた。地元の方への取材はとても楽しい。昔の人が、あそこまでして隧道を掘り、参拝したかったお稲荷様。たどり着けた・。
参拝に際して、数々のドラマがあったことだろう。夫婦の縁を取り持つこともあっただろう。
自分は、有名すぎる観光地より、こういう所が好きなのだ。普通の人たちが、代々暮らしてきた土地を結ぶ道。今回のようなところは古道とでも言おうか。結構探せばあるもので、大多喜などは見事な古道が維持されている。村から街へ出るため、山を切り開き隧道を掘り、完成した夢の道。そんな道に入ると「ああ、何十年あるいは100年近く前に、この道に希望を見出した、村の方達がいたのだな」と胸が熱くなる。
それが近代化の波にさらされ、廃道化している。車社会になったので、大通りを走れば事足りるからだ。わざわざ草刈りや倒木の除去をして山道を歩く必要もない。高齢化の村には、維持は難しい。
茂原には、数十年前(戦後)、子供たちが小学校に通いやすくするために掘られた、「愛の隧道」とも呼ぶべき道もある。竹に埋もれ、今は通る人はいない。私は藪漕ぎして無理やり通った。なんだか嬉しかった。近日公開予定!
※これは私からのお願いです。もしバイクで、農村集落の散策にいかれる場合は、歩きか自転車か、原2等が良いです。爆音マフラーやめましょう。道は狭く、車一台がギリ通れる道が多い上、農作業車が、路駐しています。自動車はやめましょう。農作業の邪魔にならない様、静かにゆっくりと走行してください。通報の可能性あります。あくまで地元の方の生活圏です。観光地ではないので、警戒する方もいます。農家の方とすれ違う際は、軽く会釈等をして、ゆっくり走ると相手の警戒心も薄れると思います。注意されたり、雰囲気が怪しい場合は撤退してください。一番向いてるバイクは、フルノーマルのスーパーカブです。静かで小さくて、Uターンもしやすくて、田舎に溶け込んでしまうから。ともあれ、楽しく冒険しましょう。
追伸・今日も痩せましたwww。
ではまた。
旧車にはこれ!
ちょっと高いけどスーパーカブにはコレ! タイHONDA純正。リアにはHONDAの文字入りだそうです。C50 C100 C65 C70 C90 等 ほぼ全てのクラシックスーパーカブにボルトオン可能!
千葉県に長柄横穴群という、古墳時代の横穴式墓が沢山ある場所がある。今日、観光客は、一人もいない。そこでぐるりと一回り歩く。鶯の声にうっとりしながら、山道を数分歩いた。
ツーリングでは、なるべく歩くようにしている。家でゴロゴロするよりはいいが、ツーリングなんて、全然ダイエットにならないからだ。むしろ、うまい物食べて太る。となると、歩くか、食べないかの、どちらか選択を迫られる。私は前者を選ぶ。※自転車の人・エライっ!
その後128号線を14号目指して走る。山間の集落が美しい。
ふと、集落に向け入らせて頂いた。運よく向こうの山を抜けられれば、それはそれで、嬉しい。
林道に突入!振り返るとこんな道↓ ※ここから、この後、帰りに地元の方に取材した談話を入れていきます。
(「昔は耕運機でも上がれた」・地元の方・談)
この先も行けるようなので、無謀にも前進!
しかし・倒木で引き返す。横は崖!!道幅1.8m位しかないので必死でUターン。足を取られ、ふかふかの落ち葉にDFを倒す!!損傷なし(良かった~)。
ふと見ると、千葉名物・手掘り隧道が・・・
入り口の石碑に、「稲荷参道開通記念」と書いてある。しかも昭和7年と彫られている!ふ、古いなー昔だなー、戦前やん。
こんなに立派な隧道を掘ってまで、行きたかったお稲荷様とはどんなとこだろう?行きたい!調べたい!
「オフ車の轍もあるし、くぐっておりたろ!」しかしこれが悲劇の始まりだった!
急な、泥&枯れ葉道を30メートルくらい降りる。
下は田んぼだったが、向こうの道には出られない。害獣除けの電線が張り巡らされている。
「アカン、もどろう」・しかし・・・・
泥と枯れ葉で途中でスリップ、しかも急坂なので、ずるずる滑り落ちて行く。
「ヤバい!」足を付けて半クラを当てるが轍を掘るだけ・「上から見えた轍はこれだったのか!」
しばらく悪戦苦闘で汗だく!「待てよ、先客のオフ車だって上がれたんだ。何か方法があるはず!・・・」
「そうだ!乗らずに押して、半クラを当てながら、同じ速度で自分もダッシュすればいい!!」
結果・何回かに分け、無事に登れた…「つ・疲れた…」
ホッとして向こう側にバイクを置き一枚パチリ・
ここまでしていきたい稲荷様とは、何処なのだ。
来た道を戻り、向こう側に出る道を探して隣の集落へ・。
すると・・
お稲荷様は荒れ果てたご様子。がけ崩れもひどかったらしく、地面も重機でならされている。
※お稲荷様の写真はこれだけです。
詳細は口コミ写真をご覧ください↓・地元民以外でここを探し当てたのは、自分だけかと思いましたが、すでに到達したツーリストさんがいらっしゃいました。写真もお上手です。何と出店の様子も!?
地元の方によると・。※( )内は私。・の後は心の声です。
「2年くらい前の台風あったろ・あれでやられたんだよ。」(・でももっと前から荒れてる雰囲気だが・・)
「それまでは、何とか参り(・子供の七五三的な?)も毎年やってたしお店も出てたよ。これから建て直すんだよ。基礎ができてたろ?」(・気づかんかった・土地は整地されていたが)。
「兄ちゃんも良かったら寄付してきなよ」
(え、ええ・ハハハ・愛想笑い)
(隣の神主さんの住居は廃屋になっていますが・・)
「あれは神主さんの家じゃねえんだよ、普通の家」(・普通の家!?)
「お稲荷さんは、個人のモノなんだよ」(・そんなことあるの?)
と、こんな感じで初老の男性2人に聞いた。地元の方への取材はとても楽しい。昔の人が、あそこまでして隧道を掘り、参拝したかったお稲荷様。たどり着けた・。
参拝に際して、数々のドラマがあったことだろう。夫婦の縁を取り持つこともあっただろう。
自分は、有名すぎる観光地より、こういう所が好きなのだ。普通の人たちが、代々暮らしてきた土地を結ぶ道。今回のようなところは古道とでも言おうか。結構探せばあるもので、大多喜などは見事な古道が維持されている。村から街へ出るため、山を切り開き隧道を掘り、完成した夢の道。そんな道に入ると「ああ、何十年あるいは100年近く前に、この道に希望を見出した、村の方達がいたのだな」と胸が熱くなる。
それが近代化の波にさらされ、廃道化している。車社会になったので、大通りを走れば事足りるからだ。わざわざ草刈りや倒木の除去をして山道を歩く必要もない。高齢化の村には、維持は難しい。
茂原には、数十年前(戦後)、子供たちが小学校に通いやすくするために掘られた、「愛の隧道」とも呼ぶべき道もある。竹に埋もれ、今は通る人はいない。私は藪漕ぎして無理やり通った。なんだか嬉しかった。近日公開予定!
※これは私からのお願いです。もしバイクで、農村集落の散策にいかれる場合は、歩きか自転車か、原2等が良いです。爆音マフラーやめましょう。道は狭く、車一台がギリ通れる道が多い上、農作業車が、路駐しています。自動車はやめましょう。農作業の邪魔にならない様、静かにゆっくりと走行してください。通報の可能性あります。あくまで地元の方の生活圏です。観光地ではないので、警戒する方もいます。農家の方とすれ違う際は、軽く会釈等をして、ゆっくり走ると相手の警戒心も薄れると思います。注意されたり、雰囲気が怪しい場合は撤退してください。一番向いてるバイクは、フルノーマルのスーパーカブです。静かで小さくて、Uターンもしやすくて、田舎に溶け込んでしまうから。ともあれ、楽しく冒険しましょう。
追伸・今日も痩せましたwww。
ではまた。
旧車にはこれ!
ちょっと高いけどスーパーカブにはコレ! タイHONDA純正。リアにはHONDAの文字入りだそうです。C50 C100 C65 C70 C90 等 ほぼ全てのクラシックスーパーカブにボルトオン可能!
STでタイムスリップ [廃墟・廃校・古道・隧道]
以前行った、熊野の清水。すぐ上に旧大多喜街道跡が残っていて、江戸時代、大名行列が通った山道を237メートル歩けます。その入り口には昔、峠の茶屋があり、賑わっていたそうです。下から登って右に2軒、左に1軒あったそうです。
こちらは2件あった敷地。さすがに広め。
1軒跡の方にSTを停めてみました。今は杉林が残り、風の音だけが聞こえます。
ST拡大っ!現在4万キロ超えました。
この写真のすぐ左側に旧街道降り口があります。
降りてみましょう。
江戸時代へタイムスリップできて嬉しい・・。
写真ないけど、街道脇に当時の馬頭観音があります。行ったらぜひ見てください。
最後はバス停に着きます。
別な日に林道も走ってみました。STは軽いので、こんな風に林道のダートも結構行けます。行き止まりでもUターンし易い(これ大切)。ここは貫通でしたが。
※集落近くの名もない小さな林道は、地元の方々の生活用道路の場合や、林業の管理用道路の場合があるので、地元の方々を驚かさないよう静かに通らせてもらいましょう。
絶対誰も来ないと思っていても、お年寄りの軽が走ってきたりします。驚くほど山奥に民家がある事もあります。他人所有の山の可能性もあります。対向車や歩行者には会釈をしてそっとすれ違いましょう。
バイクのイメージも良くなります。入口に手製のゲートやロープを張られることが減るかもしれません。
どこでも行けるSTは、自分にとって究極のツーリングバイクかも知れない。ありがとうST!気に入ってるよ!
ではまた。
こちらは2件あった敷地。さすがに広め。
1軒跡の方にSTを停めてみました。今は杉林が残り、風の音だけが聞こえます。
ST拡大っ!現在4万キロ超えました。
この写真のすぐ左側に旧街道降り口があります。
降りてみましょう。
江戸時代へタイムスリップできて嬉しい・・。
写真ないけど、街道脇に当時の馬頭観音があります。行ったらぜひ見てください。
最後はバス停に着きます。
別な日に林道も走ってみました。STは軽いので、こんな風に林道のダートも結構行けます。行き止まりでもUターンし易い(これ大切)。ここは貫通でしたが。
※集落近くの名もない小さな林道は、地元の方々の生活用道路の場合や、林業の管理用道路の場合があるので、地元の方々を驚かさないよう静かに通らせてもらいましょう。
絶対誰も来ないと思っていても、お年寄りの軽が走ってきたりします。驚くほど山奥に民家がある事もあります。他人所有の山の可能性もあります。対向車や歩行者には会釈をしてそっとすれ違いましょう。
バイクのイメージも良くなります。入口に手製のゲートやロープを張られることが減るかもしれません。
どこでも行けるSTは、自分にとって究極のツーリングバイクかも知れない。ありがとうST!気に入ってるよ!
ではまた。