ランドクルーザーを後にし、次の目的地、曽呂尋常小学校分教場跡に向かう。明治7年に建てられたものだ(148年前!!)。その後、明治42年に、曽呂村内の4つの小学校を統合した、曽呂小学校が開校(地図で測ってみると、分教場から、おおよそ4キロくらい離れている)。
その為、ここは、4年生以下の生徒が学ぶ分教場として残された。昭和48年に閉校。

倒壊が進んでいる。立ち入り禁止や・解体になる前に、ぜひ皆さんに見に行って欲しい。今が最後のチャンスかもしれない。タイムスリップもできる。

もし、草刈や補修などの、維持管理作業のお年寄りに出会ったら、感謝の言葉をかけて欲しい。
地元の人にあったら「素敵な建物ですね」と言ってあげて欲しい。観光客の少ない場所だけに、とても喜ぶと思う。




国道410を南下し嶺岡の「酪農の里」を通過、県道89号線(鴨川富山線)へ左折、東へ進むと右側に大きな看板がある。解り易い。この写真左の細道を入る。



入り口途中に西神社がある
上って参拝した。境内には鴨川市指定天然記念物の大杉(樹高25M)がある。

サッシにリフォームしてあるが、長い歴史がありそうだ。




神社の石碑には、萬延(万延)2年・とある(1861年だ)。161年前なのだ。




学校は西神社の裏手にある。静寂を保つため、DFを押して歩く。
木漏れ日のマーガレット小径を歩くと、明るい日差しの降り注ぐグラウンドが見えてきた。



最初にあるのはトイレ


臭気を逃がすためだと思われるが、2重になったこの小さな屋根、何とお洒落なのだろう。古い日本家屋の、こういうデザインが好きだ。しっかり瓦も乗って、可愛い。
手前側は男子小用だったらしいが、ご覧のように木枠のみとなっている。
男女共用の建物であるから、きっと当時は、人目を盗んで恋文を渡す子もいただろう♡。



便器は取り外したのかも知れない。昭和48年に閉校となるまで使われていたので、便器がはめてあったはずだ。明治頃の「木製便器」といったスタイルではないだろう(それはそれで見てみたいが)。最初はそうだったとしても、途中からリフォームするだろう。
推測だが、陶器の便器をはめておくと、観光客が「使用して」しまうから、トイレの機能はないよ・という意思表示に、取り外したのだと思う。

※なぜかトイレの写真が楽しい(^^)。


一番奥は倒壊が進んでいる。


昇降口
当時は40名くらいの生徒がいたそう。






グラウンド側から。壁面左に、帽子掛けのような、金具のついたものが並んでいる。下には下駄箱があり、地面にはすのこが敷いてあったことだろう


教室


小学校全景
この日は土曜日だったが、誰もいなかった。流れる静かな時間。
草履で駆け回る明治の子供たちに、思いを馳せながら、暫し佇む。その頃の子供たちは、もうこの世にいない。

できれば当時の子供たちに、宝物を見せてもらいたい。メンコやベーゴマはまだないかもしれないし、日本酒のキャップ集めも無理か。飴玉さえも高級品だろうし。物がない時代だから、竹とんぼや竹馬・女子ならお手玉くらいはあったか。おそらく当時は、子沢山の上、子供に対する人権意識もまだ低く、躾けも厳しく、農作業手伝い必至。そんな中、明治~大正~昭和初期の苦難の時代を生きた当時の子供たち。そんな彼らのコレクションを「すごいなあ、カッコイイな」思い切り褒めてあげたい。一時的かもしれないが、アイデンティティを向上させる言葉をかけてあげたい。どう考えても不可能ではあるが、廃校にいると、そんなことばかり浮かんでくる。

子供たちの、命のバトンのお陰で、今の平和な日本があると思うのだ。
のほほんとツーリングできるのも、当たり前のことではないと思う。人生の先達に感謝だ。





隣の部屋(職員室かも・)


もう一つピンクの校舎がある。※2棟全景もう少し後で出します。



これが最奥のピンクの校舎。




なんだか小部屋感があって住みやすそう。用務員さんがいたのか?畳もいい感じ。



校舎最奥のドアからトイレに行ける。こちらはまだ使えそう(でも使ってはいけません)。


グラウンド左奥にあるこの給水塔(写真右・樹の下)。
井戸水を汲み上げていたそう。

近づいてみる・・



入り口側に戻ってみよう。地元の方が維持管理に草刈りをして下さるそうで、グラウンドは綺麗。






此処の卒業生、水田三喜男先生の業績をたたえる石碑。
この方のお陰で、この学校は約50年の間、取り壊されず、保存されているらしい。詳細は後半で。



細長い校舎全体を撮るのは難しい。魚眼レンズが必要か・・

この分教場は、たくさんブログに乗っているが、建物の詳細はほぼ無い。

取材の出番だ!
地元のお店や、その他の方に取材をさせて頂いた。とても親切に明るく教えてくれた。

1・奥のピンクの建物は保育園!(多分このブログが初の情報!)赤ちゃんではなく、就学前児くらいからいたらしい(月齢で分ける際に必要だから、小部屋に仕切ってあるのかも)。当時は畳はない。用務員さんもいなかった。

2・畳は、閉校になってから、地元民の寄り合いで使うために入れた。

3・保存会も発足してはいるが、補修・維持に・億単位のお金がかかる。市には予算がない。高齢化も進み、地元民が草刈りをするのが精いっぱい。ただ朽ちていくのを見ているしかない。


4.曽呂小学校は低学年の足では遠すぎてかわいそうなので、此処を分教場として4年生まで学ばせた。
曽呂小まで、子供の足で2時間~2時間半くらいかかるらしい。



県道から保育園が見える。

※屋根は傾き、床板は割れ、窓は開けっぱなしで朽ちていく一方ですが、土足で教室に入ったり、倒壊を加速させる行為はやめてください。外から覗いて写真を撮るだけにしてください。少しでも延命させてあげましょう。村の人も望んでいます。
普通ならすぐロープを張って、近寄れなくしたり、遠くから写真だけしか取れない状態にする自治体が多いです。鴨川市の優しさを無駄にしないで・。



ここで、旧水田家住宅、へ行ってみた。すぐ近くにある。



此処の卒業生で、大蔵大臣にまで上り詰めた、水田三喜男先生の生家。この分教場跡が残っているのも、保存会があるのもこの方のお陰。地元を愛し、戦後の日本の復興に尽力し、城西大学を作ったり、人徳のある凄い人らしい。地主・村長の息子である。山を沢山持っていたため、当時は、貴重な木材が高く売れたことも、富豪要因の一つだったらしい。
近所に生家が整備されて残っている。長屋門には馬を2頭!!入れられるようになっている(スゴイ!・)。

イメージ※「父上、馬で田んぼの見回りに行ってきます」「三喜男、気をつけてな」「はい」
「ハッ!」(馬の横腹を蹴る)パカパッパカパッパカ・・・BGM(仮面の忍者赤影)(^^)。
※自分で言っておいて夢を壊すようだが、実際は軽トラ・トラクター代わりの農耕馬だと思う(笑)。










質問すれば、係のおじさんが説明もしてくれるし、明治の日本家屋に入れて楽しい。おすすめ。正直、現代でも住めそうな快適さ。囲炉裏でいぶされた天井の梁が、涼し気。扇風機で、空気を循環させている。間接照明で、観光客をもてなしてくれている。


明治づくりの玄関には、畳が4畳敷いてあって、来客と話が弾みそう。部屋まで上げなくても、玄関先ってのがまた、話が盛り上がったりするかも・・つか、ここは大地主の村長だから、お客も多く、いちいち全員家に上げていられないから、玄関先で捌く必要もあったのだろう。
※これは昭和になってからは見られない造りだそうです。4というのが縁起わるいから。
昭和以降の、新築の際は、違う畳数に変えられたそうです。

※ぜひ見に行ってください。


さあ曽呂小学校へ行ってみよう。2時間以上かかる学校とはどんな所だ!

途中の山が気持ちいいことこの上なし!バイクの向こうは谷になっており、棚田が連なる。


東に進むとやっと曽呂小学校が、確かに遠い。確かに分教場から2時間はかかるな・・・アップダウンもきついし、通っていた5~6年生カワイソス・・


しかもここも平成27年に閉校・寂しい。

閉校は寂しいが、皆で訪問して地元を盛り上げるのもいいかもしれない。皆さんにも、ぜひ訪れて頂きたい。


今回も夢中で取材(という体で、楽しく会話してるだけ)と、DFで爆走の連続で昼飯を忘れていた、(朝も食べてない)もう15時を回りそう。
なるべく地元の安い店・・おどや長狭店にした。地元のスーパーはそこの生活感を感じられて好きなのだ。
多分サラダも食べた気がするが、メインはコレ。電子レンジで加温して、店外へ。

屋外に座り、店横の空き地で、伸び放題のタケノコを見ながら、食べた。
今日も満喫したなあ。
帰り際、パパのYBR125の後ろに乗って、6歳ぐらいの少女が買い物にやってきた。DFをジ~ッとみていた。原2に興味あんのかな。親の影響だね。将来の女子ライダー候補がまた一人(o^―^o)ニコ。


最後に、鴨川の海に別れを告げた。原2とは言え、快適に長距離移動ができるDFに、感謝だ。

ではまた。